聖書のみことば
2025年7月
  7月6日 7月13日 7月20日 7月27日  
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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7月6日主日礼拝音声

 第五の雀
2025年7月第1主日礼拝 7月6日 
 
宍戸俊介牧師(文責/聴者)

聖書/ルカによる福音書 第12章4〜7節

<4節>「友人であるあなたがたに言っておく。体を殺しても、その後、それ以上何もできない者どもを恐れてはならない。<5節>だれを恐れるべきか、教えよう。それは、殺した後で、地獄に投げ込む権威を持っている方だ。そうだ。言っておくが、この方を恐れなさい。<6節>五羽の雀が二アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、神がお忘れになるようなことはない。<7節>それどころか、あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている。」

 ただ今、ルカによる福音書12章4節から7節までを、ご一緒にお聞きしました。
 4節に「友人であるあなたがたに言っておく。体を殺しても、その後、それ以上何もできない者どもを恐れてはならない」とあります。ここで主イエスは、まことに重大なことを弟子たちに語っておられます。この言葉は、2000年前に生きていたユダヤ人である弟子たちだけでなく、今日ここで聖書を開いて御言に耳を傾けようとしている私たちにも語りかけられています。そしてこれは、極めて重大なことです。私たちの信仰が立ちも倒れもするような重大な事柄です。それは、教会を迫害しキリスト者の抹殺を計ろうとする敵が現れるということではありません。「体を殺す」というような言葉を聞かされるとびっくりしてしまって、ついその言葉に思いが向かうかも知れません。けれども、今日の箇所で最も重要なのはそのことではありません。そうではなくて、主イエスが弟子たちに向かって「友人であるあなたがた」と呼びかけてくださっていることが、何にもまさって重要な事柄なのです。
 主イエスが「友人であるあなた」と親しく呼びかけてくださるのは、12弟子たちや2000年前に生きていた人たちだけではありません。聖書の中に神からの語りかけを聞こうと、御言に向かう人すべてに、主イエスは「あなたはわたしの友なのだ」と語りかけてくださいます。私たちは、主イエスによって「友人」と呼びかけられ、主イエスに常に伴われて生きてゆく者とされています。信仰生活というのは、主イエスが絶えず私たちの友となって寄り添ってくださり、支えてくださるところに成り立ち、営まれてゆきます。それ以外の仕方では、私たちの信仰は長続きしません。主イエスがいつも真実な友として寄り添ってくださり、私たちの人生を共に歩んでくださるからこそ、私たちはキリスト者として生きてゆくことができます。そういう極めて大切なひと言を、今日のところで主イエスは語っておられるのです。

 主イエスが地上の御生涯の中で、弟子たちに向かって「あなたがたはわたしの友である」とおっしゃったのは、今日のこの箇所と、それ以外にはあと1回しか聖書には出てきません。それはヨハネによる福音書15章で、イスカリオテのユダが主イエスを裏切るために外に出て行った後、主イエスがこれから起こることを思いながら弟子たちに教えてくださったところに出てきます。12節から15節に「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである」とあります。主イエスが弟子たちに向かって、「あなたは友である」とおっしゃってくださるのは、決して気まぐれにそう呼ぶのではなく、たまたま「友」という言葉を口にした訳でもありません。人が「友」という言葉を口にする時には、あまり考えることなくそう言ってしまうようなことがあるとしても、主イエスがこの言葉を口になさる時には、あるはっきりとした覚悟をもって、こうおっしゃいます。主イエスは、御自身の側にはっきりとした決心をもって、私たちに「あなたはわたしの友人、友なのだ」と呼びかけてくださるのです。
 主イエスの決心とはどのような決心でしょうか。「友のために命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」と主イエスはおっしゃいます。主イエスは友のために十字架に掛かり、苦しめられてお亡くなりになる覚悟をしておられます。主イエスがそういう覚悟をお持ちになるのは、弟子たちが主イエスにとって、決して裏切ることのない近しい存在だからではありません。イスカリオテのユダがやがて主イエスを裏切ることは勿論、その裏切りによって主イエスが敵に捕らえられた後、弟子たちがどのように行動するかということも、主イエスは見通しておられます。
 人間同士の間柄で抱く友情やそれ以上にも感じられる親密さ近しさが、実際にはどんなに脆弱で不安定なものでしかないか、いざという時にはどんなに脆く崩れ去ってしまうかということを、主イエスはよく御存知です。ルカによる福音書でも、この先のところで弟子たちに教えておられます。21章16節から18節に「あなたがたは親、兄弟、親族、友人にまで裏切られる。中には殺される者もいる。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。しかし、あなたがたの髪の毛の一本も決してなくならない」とあります。この21章で主イエスがおっしゃっている言葉と、今日の箇所でおっしゃっている言葉は、同じ髪の毛が出てくることからも分かりますが、互いにつながっている話です。21章で主イエスは弟子たちに向かって、「あなたがたはやがての日、わたしの名のために、親や兄弟や友人たちに裏切られて辛い思いを経験することになるだろう」と、見通しを語っておられます。しかしこの見通しは、ただ弟子たちの身に起こるだけではありません。まずは主イエス御自身が友人である弟子たちから見捨てられ、たったお一人で十字架にお掛かりになるのです。そしてそのことを承知の上で、主イエスは今日のところで、「あなたがたは、それでもわたしの友人、友なのだ」とおっしゃってくださっているのです。はっきり言ってしまえば、弟子たちがやがて主イエスを裏切り見捨ててしまい、友と呼ばれる値打ちもない者に成り下がってしまうことをすべて承知の上で、「それでもあなたがたはわたしの友である」とおっしゃってくださっているのが、今日の箇所なのです。

 主イエスと私たちの間柄は、どうしてそこにつながりが生まれるのでしょうか。私たちが主イエスを近しく思ったり、好ましく感じたりするからでしょうか。確かに私たちは主イエスのことを近しく思い、良い印象をもって憶えています。でもそれは、私たちがそう思ったり考えようとしているからではなくて、主イエスの側が真実に、御自身がどんなに傷を受けても苦しまれても、それでも私たちに伴い共にいてくださる真実に支えられている結果なのです。主イエスと私たちのつながりは、主イエスが全面的に、また一方的に犠牲を払って間柄を成り立たせてくださっているつながりです。
 しかしそのように考えてきますと、一つの疑問が浮かび上がるのではないでしょうか。主イエスが常に真実な友として私たちの人生に伴い、寄り添い助けてくださるというのは、私たちにとっては大変ありがたい話です。人生の中でどんなことが起こるとしても.私たちは決して一人きりではなくなるからです。ですが、主イエスがそのようなあり方をなさることは、御自身にとってはどうなのでしょうか。主イエスが敵に捕らえられ、十字架に掛けられて苦しみをお受けになったあの最も辛い時に、弟子たちは誰一人として主と共にいようとはしませんでした。弟子の全員が主イエスを見限り、クモの子を散らすように逃げ去ってしまいました。主イエス御自身は真実に弟子たちの友でいようとしてくださいましたけれども、しかしその主イエスが友であり続けようとした人間は、主イエスの御生涯の最も厳しく苦しい時に、皆無だったのです。本当に誰もいませんでした。主は、激しい嘲りと辱めの中で孤独にお過ごしになったのです。
 そういう主イエスにとって、「友となって歩む」ということには、果たして何かの利益があったのでしょうか。主イエス御自身は、そういう間柄で本当に良かったのでしょうか。その点がまさに疑問なのです。
 もちろん、こんなことを問うならば、ある答えがすぐに返ってくるだろうということはある程度、予想がつきます。「主イエスは神の独り子であって、私たち人間とは違う。私たちのように感じ易く傷つき易いのとは違って、主イエスは傷つくことはないのだから、そのように主イエスのことを心配するのは取り越し苦労である」、そういう考えです。確かにそれはその通りなのですが、しかしこの疑問は、実は、主お一人だけの問題に留まらないようなところがあるのです。先程、主イエスが弟子を友人であると言ってくださったのは今日の箇所の他にヨハネによる福音書の中にも述べられていると言いましたが、その中では、主イエスが弟子たちに向かって、「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である」とおっしゃっていました。あの「掟」は、別な言い方をすれば、「主イエスはどこまでも真実に友としてのあり方を弟子たちに対して貫いてくださった。そのあり方を、次には弟子であるあなたがたの間でも持つようにしなさい」ということになるでしょう。それが「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である」ということの意味なのです。
 すると、主イエス御自身の愛に倣って生きようとする時には、私たちは、主イエスが経験なさったような裏切りや孤独を経験させられるということになるのではないでしょうか。主御自身は神と等しくある方なので、裏切りや孤独に傷つかないのかも知れません。ですが、私たちは違います。主イエスは平気であっても、私たちは、裏切りや孤独の中に取り残されてしまうことに耐えられません。そんなことになったら私たちは、傷つき、疲れ果ててしまうに違いありません。主イエスのおっしゃる「どこまでも真実に友として伴う」というあり方は、伴ってもらう側には都合が良くても、伴う側は果たしてそれで良いのだろうかという疑問は、主イエスのための問いというよりも、私たちが主の言葉に聞き従って生きようとする時には、私たち自身がきっと直面することになる、まことに重い問いであると言わざるを得ません。「主イエスがわたしのことを愛してくださったように、互いに愛し合うという生き方を、本当にわたしがやろうとして良いのだろうか。それ以前に、そんなあり方が本当に自分にできるのだろうか」という疑問が、私たちの中から浮かび上がらざるを得ないのです。

 主イエスは、私たちの中に、本当に愛がごく僅かしかないということをよく御存知です。それで、先週聞いたところでは、その愛の貧しさをごまかすために仮画を被って生きるような偽善に陥ってはいけないと戒めておられました。今日のところでは、戒めるのではなく、僅かしか愛を持ち合わせていない弟子たちが、何を見て、何に注目して生きるべきかを知らせてくださいます。即ち、愛のない人間の物騒さを恐れて暮すのではなくて、私たちを愛し、どこまでも持ち運ぼうとしてくださる方がいらっしゃることに思いを向け、この方こそを本当に恐れ、またこの方に信頼して生活するようにと教えてくださるのです。それが4節後半から5節にかけて、主イエスがおっしゃる事柄です。「体を殺しても、その後、それ以上何もできない者どもを恐れてはならない。だれを恐れるべきか、教えよう。それは、殺した後で、地獄に投げ込む権威を持っている方だ。そうだ。言っておくが、この方を恐れなさい」とあります。主イエスは弟子たちに、「あなたがたは決して裏切られない、殺されない」とおっしゃるのではありません。確かに人間には無情なところがあります。思いがけない時に信頼していた人が突然愛を失って、隣人を突き離し、孤独にさせ、死に追いやってしまう場合もあり得る物騒な生き物が人間です。ですが、そのような物騒で貧しい愛しか持ち合わせていない人間一人ひとりを、それでも愛し、誠実に向き合い、どこまでも支えて持ち運ぼうとしてくださる方がいらっしゃいます。そして私たちは、その方の真実な愛と慈しみを知らされ、その愛の内に憶えられて、「今日一日を生きるように」と、それぞれの命の時間を与えられているのです。
 もしも、この方から見捨てられてしまうなら、私たちは地獄の中に追放されてしまうことになるでしょう。5節に言われている地獄というのは、どこかの場所を表している言葉ではありません。私たちを絶えず憶え、見守り支えてくださる方から捨てられてしまうことが、地獄という言い方で表されています。愛の貧しい私たちを、それでも何とかして御自身の真実な愛と慈しみの下に置いて生かそうとしてくださる方をこそ恐れ、この方が本当に憐れみと慈しみもって「あなたは生きるのだ」とおっしゃってくださる言葉を信じて生きるようにと求められているのです。

 この愛と命の源である神が私たちのことをどのように御覧になっているかということを、主イエスは有名な雀のたとえを通して教えてくださいました。6節に「五羽の雀が二アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、神がお忘れになるようなことはない」とあります。2アサリオンというのは、今日の私たちの貨幣感覚で言うと1200円ぐらいと思われます。それで5羽買えると言いますので、1羽が240円くらいになると思われます。ところが別の機会で主イエスは、「2羽の雀が1アサリオンで売られる」とおっしゃることもあるのです。2羽で1アサリオンですから、5羽で2アサリオンということは、5番目の雀はおまけで、値がつかないということになります。
 人間が値打ちを見出さずにおまけにしてしまうような雀の1羽でさえ、神は決してお忘れにならないのだというのが、このたとえの趣旨です。もちろんこれは雀のことなのではなくて、私たち人間のことを、神がどのように御覧になっているかを伝えるたとえです。「あなたは自分の愛の貧しさ、乏しさの故に、神の御前に本当に何の役にも立たないつまらない者だと思うことがあるかもしれない。それはその通り、確かに自分を見つめるならば、愛の乏しさを実感しても仕方ないであろう。しかし神さまは、まったく値がつかないような1羽の雀にだって思いを向けてくださっている。あなたは自分が無価値だと思っているかもしれないけれども、あなた自身ではなくて、あなたの髪の毛の一本までも、神さまはそれを数えておられ、そしてそれが無くなることをお許しにならない」と、主イエスはおっしゃるのです。私たちが神に愛されているのは、私たちに何かの能力があったり情け深かったりするからではありません。私たちは、「神さまの許しのもとに生きてよい」と呼びかけられ、「その言葉を信じて生きるように」と、主イエスから教えられているのです。
 私たちのありようの愚かさも頑なさも、愛の無さも弱さもすべて、神は御存知でいてくださいます。そして、そういう値打ちの無いような私たち一人ひとりに、主イエス・キリストを通して、「それでもあなたはわたしの友人だ。わたしと共に生きよう」と呼びかけていてくださるのです。

 今日の箇所で主イエスが語っておられるのは、主イエスが十字架に向かって進んで行かれる途上で語っておられる言葉です。主イエスがこの道を進んで行かれ、十字架に掛けられ、誰からも顧みられず反発され嘲られ苦しんでお亡くなりになる、そういう道を最後まで歩まれたのは、そのことを通して、この世からまったく要らないと言われ、追放され抹殺されてしまうような人間でも、なお神の御心に憶えられているということを教えてくださるためでした。
 主イエスはまさに今、エルサレムの十字架に向かう途上におられるのですが、その十字架は、「私たちを心から友と呼んでその命を惜しみ、大事に生かそうとしてくださる方がおられる」ことを表すのです。

 キリスト者一人ひとりの人生の上には、私たちを友と呼んでくださり、常に伴ってくださる主イエス・キリストの十字架が立てられています。私たちは一人の例外もなく、キリスト者であるなら、自分の人生の中に、主イエスが十字架に掛かってくださったという事実を刻みつけられ、その十字架を運びながら地上の生活を歩んで行きます。しかしそこには、神の御業の暖かさと、神の威厳が刻まれていることを憶えたいと思います。

 私たちは、どんなに自分に愛想が尽きて、自分の弱さや頑なさが気になる時にも、そういう自分を、また隣人を恐れてはならないのです。そうではなくて、それでも生きて良いと言ってくださる神を恐れ、生きていくようにと、主イエスが今日も私たちに語りかけてくださっていることを憶えたいと思います。お祈りを捧げましょう。
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