聖書のみことば
2026年1月
  1月4日 1月11日 1月18日 1月25日  
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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1月25日主日礼拝音声

 失われていた息子
2026年1月第4主日礼拝 1月25日 
 
宍戸俊介牧師(文責/聴者)

聖書/ルカによる福音書 第15章11〜24節

<11節>また、イエスは言われた。「ある人に息子が二人いた。<12節>弟の方が父親に、『お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前をください』と言った。それで、父親は財産を二人に分けてやった。<13節>何日もたたないうちに、下の息子は全部を金に換えて、遠い国に旅立ち、そこで放蕩の限りを尽くして、財産を無駄遣いしてしまった。<14節>何もかも使い果たしたとき、その地方にひどい飢饉が起こって、彼は食べるにも困り始めた。<15節>それで、その地方に住むある人のところに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって豚の世話をさせた。<16節>彼は豚の食べるいなご豆を食べてでも腹を満たしたかったが、食べ物をくれる人はだれもいなかった。<17節>そこで、彼は我に返って言った。『父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどパンがあるのに、わたしはここで飢え死にしそうだ。<18節>ここをたち、父のところに行って言おう。「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。<19節>もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」と。』<20節>そして、彼はそこをたち、父親のもとに行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。<21節>息子は言った。『お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。』<22節>しかし、父親は僕たちに言った。『急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。<23節>それから、肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。<24節>この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。』そして、祝宴を始めた。

 ただ今、ルカによる福音書15章11節から24節までを、ご一緒にお聞きしました。24節に「『この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。』そして、祝宴を始めた」とあります。「この息子」と言われているのは、この記事から分かるとおり弟息子の方です。弟息子は父親から分けてもらった財産をすべて使い果たし、着のみ着のままで実家に戻って来ます。そのため、このたとえ話は「放蕩息子のたとえ話」と言われています。けれども、今日の箇所の一番初めのところを見ますと、主イエスは二人の兄弟の話をなさっていることが分かります。主イエスは、「ある人に息子が二人いた」と言って話し始めておられるからです。主イエスは弟息子だけの話をなさったのではありません。二人の兄弟の話をしておられます。今日の箇所はしばしば、15章の最後までを読んだ上で「放蕩息子のたとえ話」として読まれがちなのですが、ここは二人の兄弟それぞれに向けられている父親の愛が語られている箇所です。そんな訳で、今日は24節までの弟息子の記事を聞き、次には25節から32節までの兄息子の記事を聞こうと思います。

 ところで、弟息子は放蕩息子であったと言われて来たのですが、そのように呼ばれるのは、13節にこの息子が「放蕩の限りを尽くした」と述べられているためです。「放蕩の限りを尽くした」という言葉は、原文では「救いのない生活をして全財産をすってしまった」と書いてあります。「救いのない生活」とは、どういう生き方を言うのでしょうか。12節13節に「弟の方が父親に、『お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前をください』と言った。それで、父親は財産を二人に分けてやった。何日もたたないうちに、下の息子は全部を金に換えて、遠い国に旅立ち、そこで放蕩の限りを尽くして、財産を無駄遣いしてしまった」とあります。
 弟息子が放蕩の限りを尽くしたと聖書から聞かされる時、私たちは、たとえばこの息子が午前中から酒場に出入りしたとか、いかがわしいお店に通いつめたというような印象を受けるのではないでしょうか。けれども実際のところがどうであったのかは、よく分かりません。この若者の暮らしぶりはそんな風であったのかも知れませんが、そうではなかったのかも知れません。放蕩生活と言われてしまいますと、いかにもお酒などで身を持ち崩す、気ままで自由奔放な生活を連想してしまいがちですが、元々の聖書には「救いのない生活」と書いてあります。今日、救いがない生活、救いがあることを知らないで、ただ家計の帳尻さえ合わせておけばそれで良いという生き方、生活が何とか成り立ってさえいればそれで良いと考えて、与えられた人生をただ生きてしまう人もいるかも知れません。どうもこの福音書を書いたルカは、この弟息子の救いのない生活を、財産を使い果たしてしまったために失ってしまった生活というよりも、かなり早い時点から、この弟息子がまだ親元で過ごしていた時点から始まっていたと見ているようです。
 この弟息子は、ある日、父親に「お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前をください」と申し出ています。弟息子は父親の側から見れば、二人いる息子たちの一人です。ですから当然、この息子がやがては父親の財産を受け継ぐようになっている、それはその通りです。旧約聖書のモーセの律法によると、長男は他の兄弟たちの2倍の財産を受け継ぐことが定められていました。そこにはおそらく長男が年をとった両親を養うということも含まれていたものと思われますが、このたとえ話に出てくる兄弟で言えば、兄が三分の二、弟が三分の一を受け取ることになります。
 その財産を何時受け取るかということは、当然のこと、考慮しなくてはならない問題で、普通は父親が世を去った時に、残された財産を兄弟の間で相続することが当時としても当たり前でした。ですから、父親の財産のうち、自分の受ける分を早めに分けて欲しいと願う弟息子のあり方は、この最初のところからあり方がおかしいと言わざるを得ません。何故弟息子は父親をせかして、早めに財産を分けてもらったのでしょうか。それは、この息子が分け前を実際に手にして、間もなく分かります。彼は父親から譲られた財産をすべて売り払い、金に換えてしまったのです。お金が好きだからではありません。彼はそのお金を元手に遠い国に旅立ち、そこで自分独りきりの生活を始めます。そしてその生活の中で、救いのない生き方をして、せっかく手にした全財産を無駄遣いしてすってしまったのでした。そのようなこの弟息子のあり方を、聖書は「放蕩の限りを尽くして身を持ち崩してしまった」という言い方で語っているのです。
 こういう弟息子のあり方は、今日の日本の社会の状況下で考えるならば、若者が親元を離れ、自立を求めて巣立って行こうとする姿と重なるようにお感じになるかもれません。今日の子どもたちは、親元に留まり家業を手伝って親と共にあり続けることの方が稀であると言えるように思います。より多くの子どもたちは就職や進学のために家を出て、独り暮しをする場合が多いのではないでしょうか。そういう時期を経て、子どもたちは大人へと成長してゆきます。そんな今日の若い世代の人々の行動と比べると、ここに登揚する弟息子の姿が重なって見えるように感じるだろうと思うのです。確かに、よく似ていると思います。
 けれども、人間が自立して生きる時には、同時に、そこに自分自身の判断や決心で自由に行動する責任も伴うことになるのではないでしょうか。自分は自立し、個人で自由に生きるのだからと言って、共に生きる近しい者たちや隣人たちを悲しませて良いということにはならないでしょう。二人の息子は、これまで父親に育ててもらい、近しい間柄の中で生活してきました。しかしこのたとえ話で考えさせられるのは、弟息子は家族に対して、果たして責任あるあり方をしているのだろうかということです。
 この息子は、分けてもらったものをすべて金に換えたと言われています。これはどういうことを言っているのでしょうか。当時のことですから、父親が二人の息子に分け与えた財産は、預金通帳の残高などではありません。当時の財産というのは、家畜であったり土地であったり、そこに建つ小屋や井戸の権利だったでしょう。それは、弟息子が受け継いでくれると信じて、父親が息子に分けたものです。所有者の名前は父から子に移りますが、家族である限りは息子たちがそれを守ってくれるだろうと期待して、父親は我が子の手に家畜の群れや住み慣れた家や家畜小屋や、あるいは苦労して掘り抜いた井戸の使用権を委ねたのです。
 ところが弟息子は、その父親の期待に一切応えようとしません。自分の手に権利が転がり込んできたのを良いことに、持ち物や権利の一切を赤の他人に売り払ってしまいます。父親とすれば予想外のことだったでしょう。長年苦労して守り抜いてきた土地や建物が、まったく何の苦労もしなかった人の手に、みすみす渡ってしまうのです。これまで健康管理に気をつけながら育て、一匹も失うまいと体を張って守ってきた羊や山羊たちも、他人の持ち物となってしまいます。父親とすれば、そんな風になるために身代を譲ったのではないと叫びたい気持ちになったのではないでしょうか。
 けれども、その気持ちや思いは弟息子には届きません。父親がどんなに大きな声を張り上げるとしても、弟息子はすべてを売り払ってお金に換え、身軽になって遠い国に旅立ってしまいます。父親にすれば、長年苦労して守り続けてきた財産も、また大切な息子の一人も、同時に失ってしまったようなものです。何とも気の毒な状況に、この父親は置かれています。
 こういう時には、この父親はもう少し父親らしく、威厳を示した方が良いのではないでしょうか。弟息子に好き勝手に振る舞われてしまうくらいなら、息子が自分の分け前をねだった時に、はっきりと、「この財産は自分が生きている間は自分のもので、お前が好きにできるようなものではない」と厳しく申し渡した方が良かったのではないでしょうか。もちろん、そのような返事を聞けば、弟息子は不満を感じてむくれたかも知れません。しかしそれが何でしょうか。財産は本当に父親の物です。自分が苦労して築き上げてきたものを、たとえ息子であろうと、他人がとやかく言うべきではありません。それとも、この父親には自分の財産を自由にする権利がないとでも言うのでしょうか。

 しかし、ここまでこの記事を読みながら、この父親と息子の関係を考えてみて思わされることがあります。この放蕩息子と父親の関係というのは、本当は、神に当たり前のように背中を向け、平気で神抜きで生きてしまう私たち人間と神御自身との関係を表すものとして語られているのではないか、ということです。
 これまでルカによる福音書15章では、「見失われたものが見出される喜び」を語るたとえ話が続いていました。まず、失われていた一匹の羊が情け深い羊飼いによって、あちこち捜し求められた挙句に見出されます。また今日の箇所の直前のところには、自分自身を守る持参金として肌身離さず持っていた銀貨を見失ってしまった主婦が、家中を掃き掃除してやっと見つけ出し、近所の主婦仲間や友人たちと共に喜んだ話が述べられていました。
 しかし、たとえば今日の直前にある10節には、「言っておくが、このように、一人の罪人が悔い改めれば、神の天使たちの間に喜びがある」と述べられています。ルカによる福音書15章の「見失われていたものが見出される喜び」というのは、人間が罪と呼ばれる状況に陥ってしまって神に背を向けて自分の思いばかり追いかけて生きてしまおうとする見当違いな生き方、本来あるべきあり方からすれば、まるきり生きる方向性が見失われて的外れになってしまっている私たち人間の姿が語られているところなのです。その的外れに生きてしまう人間のあり方に二色あって、弟息子のように、はっきりと神の期待を裏切って自分の願いばかりを先立たせてしまうあり方もあれば、兄息子のように、自分ではずっと神の近くに踏み留まっていると思い込んでいながら、実際は神の御心が何も分かっていなくて、神の喜ばれる罪人の悔い改めを一緒に喜ぶことができないで、心が石のように固く冷たくなってしまうあり方があることを、主イエスは、このたとえを例にとって教えているのです。

 今日の箇所では、弟息子のあり方が示す弟息子の行動は、初めのうち、とても上手くいっているように思われていました。弟息子の理不尽な要求に対しても父親は怒ったりせず、息子の自由を尊重してくれているようでした。もっとも、弟息子は気がついていないのですが、危うい道へと歩み出しています。自分が受け継いだ親の財産一切をお金に換えるという行動は、弟息子が、自分が何を受け継いだのか、自分が何者であるかを忘れさせるようなあり方です。すべてをお金に換えてその時その時で自分の必要のために用立てるというあり方は、一見すると良さそうなのですが、しかしその財産は同時に、弟息子がそれまで育てられ親しんできた物たちです。弟息子がそれを財産という形で受け継いだならば、自分が大切に守られ育てられて来て今があることを、弟は財産を見るたびに思い出すことができたことでしょう。ところがその財産は、今やすべてお金に、つまり数字に変えられてしまっています。弟息子は、自分がどのように歩んできたのか、自分がどんなに愛され大事に守られて生きて来たかをすべてお金で測るようになってしまい、自分はそれでやってけると思い込んでしまうような、極めて危うい生き方になってしまいました。
 人間はいつも、自分一人だけで生きていけるのではありません。誰であれ、周囲の人々や多くのものに支えられて生きています。弟息子は間もなくそのことを、嫌というほど味あわせられることになるのです。14節に「何もかも使い果たしたとき、その地方にひどい飢饉が起こって、彼は食べるにも困り始めた」とあります。
 弟息子の思うように事が運んでいたとき、彼は無敵でした。神にすら背を向けても平気だったのです。しかし、彼は神ではありません。その証拠に、彼は飢饉が起こるとそれに対処する知恵を持ちません。仕方なく、遠い国で知り合った知人を頼ります。ところが、この人は父親のように温かな人物ではありませんでした。金の切れ目が緑の切れ目と言われます。この人はまさにそういう人でした。頼ってきた弟息子を畑に送り、あろうことか豚の世話をさせます。ユダヤの律法において、豚は汚れた動物とされていましたから、普通のユダヤ人は豚の世話をすることはありませんでした。ところがこの知人は、弟息子にその仕事を当てがいました。この知人は弟息子のことを、一人前のユダヤ人とは扱わなかったことを示しています。
 お金のある時は社交的に付き合えていたのに、今は違います。こういう心無い扱いに対しては、当然腹を立てて当たり前でしたが、しかし弟息子の心に兆したのは別の思いでした。16節に「彼は豚の食べるいなご豆を食べてでも腹を満たしたかったが、食べ物をくれる人はだれもいなかった」と述べられています。弟息子を一人のユダヤ人として扱おうとしなかった知人は確かに失礼なのですが、弟息子自身もそれに腹を立てるよりも空腹を満たすことの方に思いが向いてしまい、人扱いされていないことが二の次になっています。彼は元々、受け継いだ財産をお金に換えたことで、自分自身が育ってきた歴史から自分を切り離していました。そのことはとても危ういことでしたが、今や、自分が人間として生まれついていることすら忘れそうになっています。
 けれども、お金のために、食べるために、やりたくないことにも手を染めてしまうということは、私たちにも共通する姿であるのかも知れません。これは本当に惨めな、哀れな人間の姿だと言うべきではないでしょうか。「貧すれば鈍する」というように、人間であることを忘れて、どこまでも浅ましくなってしまう、そういうことは私たちであっても起こり得ることではないでしょうか。

 けれども弟息子は、その惨めさのどん底で、父のことを思い出すことができました。「父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどパンがある」ことを思い出し、息子と呼ばれる資格はないとしても、雇い人の一人にしてもらおうと考えて、父のもとに戻って来ます。この息子にとっては、この気づきこそが、救いのない滅びから向きを変えて父の許に帰って来るきっかけとなったのです。
 けれども、このように父の許に戻ることに気づける人は決して多くはありません。むしろ稀有な存在だと言えます。このたとえ話の中で、主イエスは何をおっしゃりたいのでしょうか。「この弟息子のように、あなたがたも本来の自分に立ち返る志を持たなければならない。あなたがたもそうなりなさい」と教えておられるのでしょうか。そうではないと思います。この弟息子は、自分で気がついて父の許に立ち帰りました。しかし、これが当たり前の姿だと主イエスはおっしゃっているのではありません。むしろ大方の人は、このような気づきを持つことができないで滅んでしまうことの方が多いように思います。

 主イエスは、今日のところと次のところで、二人の息子の話をなさいます。しかし、ここには実はもう一人、たとえ話の中には姿を現さない独り子が関わっているのです。それは、この話をしておられる主イエス御自身です。
 主イエスは、悔い改めることのできた弟息子の話をしておられます。そして主イエス御自身は、悔い改めることができずに滅びに向かって歩んでしまう大方の人たちの身代わりとして、自らが十字架にお掛かりになって、多くの人々の滅びと死の苦しみを御自身の側に引き取ってくださるために、エルサレムへ向かって歩んでおられます。この弟息子は、たとえ話の中では、いかにも自分の力で父の家に戻る道を見つけ出し、自分で決断したように語られていますが、実際には、主イエスの執り成しによって、罪を赦されて父の家に帰る道へと立たされているのです。

 人間には不可能と思えることでも、神はおできになります。どんなに頑な人にも、神は立ち帰る道をお与えになることができることを、前回のたとえ話から聞きました。捜されている銀貨には心がありませんから、銀貨が悔い改めるということは普通はあり得ないことです。しかし人にはできないとしても、神はおできになります。
 今日の弟息子が父の許に立ち帰ることができたのも、それが当たり前なのではなくて、本当に不思議な神の導きの中で、到底悔い改めには至らず滅んでしまってもおかしくないような救いのないあり方に陥っていた弟息子の上に、悔い改めの朝が訪れることを、主イエスは教えておられます。

 ですから私たちは、決して落胆するには及ばないのです。自分自身についても、また、私たちが祈りの内に憶える親しい知人や友人や家族のことについても、神がきっと道を備えてくださり、悔い改めの朝を与え、神との交わりの中を生きるようにと招いてくださいます。放蕩息子のたとえ話は、他の誰でもない、私たち自身の物語なのです。
 主イエスが間違いなく、滅びに向かってひた走っている者に寄り添い、神へと思いを向けて生き方を変えさせてくれる道を備えてくださることを信じたいのです。そして私たちは、自分自身のことも他の人のことも、主なる神の導きに信頼して、その歩みを御手にお委ねしたいのです。お祈りをささげましょう。

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