聖書のみことば
2014年2月
  2月2日 2月9日 2月16日 2月23日  
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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 子供のように
2014年2月第3主日礼拝 2014年2月16日 
 
北 紀吉牧師(文責/聴者)
聖書/マルコによる福音書 第10章13〜16節

10章<13節>イエスに触れていただくために、人々が子供たちを連れて来た。弟子たちはこの人々を叱った。<14節>しかし、イエスはこれを見て憤り、弟子たちに言われた。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。<15節>はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」<16節>そして、子供たちを抱き上げ、手を置いて祝福された。

 13節に「イエスに触れていただくために、人々が子供たちを連れて来た」と記されております。なぜでしょうか。人々は、「主イエスに触れる」ことで、「力をいただける」と思っているからです。
 5章25〜34節には、「十二年間も出血の止まらない女」が「この方の服にでも触れればいやしていただける」と思い、「群衆の中に紛れ込み、後ろからイエスの服に触れ」、「すると、すぐ出血が全く止まって病気がいやされたことを体に感じた」ことが記されております。「イエスは、自分の内から力が出て行ったことに気づいて」とありますように、主イエスの力が女に与えられたことが、ここに、はっきりと述べられております。

 そのように、「主イエスに触れる」ことは「主の力をいただくこと」ですが、しかし、その力は単なる病の癒しの力ではありません。主イエスの力は、「神の子なる、神の力」ですから、主イエスに触れることで、人は「神の力をいただく」のです。
 私どもにとって、主イエスに触れることは、「主イエスを思い起こす」ことです。「御言葉に聴く」ことで「主イエスを思い起こす」のです。御言葉に聴くとき、そこに主が臨んでくださり、「主の触れる恵みに与る」のです。御言葉によって「私どもの内に主イエスを鮮やかにする」こと、今朝もこの礼拝において、私どもはその恵みに与っております。主の力をいただいているのです。そして、私どもは知ります。「主イエスこそ、私どもの力、支え、導きである」ことを知るのです。

 ところで、ここで、子供を主イエスのところにつれて来たのは誰かと言いますと、「人々が」とあります。今日はこの箇所に関連した讃美歌として、讃美歌2編の5番「ガリラヤの村を」を讃美しました。その1番の歌詞には「母たち子どもら つどいきたる」とあります。作詞者は、「人々」を「母たち」だと考えたのでしょう。確かに情緒的には心惹かれる歌詞ですが、御言葉には「人々」と言われているのであって、父母とは言っておりません。
 このことも覚えるべきことです。「だれかれが」と言うことではなく、「主イエスのところに子供たちを連れて来ることの大切さ」が示されているのです。それは、私どもに対しても示されていることです。父母だけが子供を連れて来るのではありません。兄弟、親族、あるいはキリスト教関係の幼稚園、学校などの勧めによって、子供たちを主イエスのもとに連れて来ることの大切さが示されております。
 「人々が子供たちを連れて来た」、それが誰であったとしても、主イエスは子供をご自分のもとに連れて来ることを良しとしてくださり、受け入れてくださっているのです。そのことがここに述べられていることです。

 けれども、「弟子たちはこの人々を叱った」とあります。どうしてでしょうか。私どもは、主イエスが子供たちを受け入れておられるという結論を知っておりますから、弟子が人々を叱ったことは間違っていると思ってしまいますが、しかし考えてみますと、この結論を知らなければ、弟子たちの思いも無理からぬことと思って良いと思うのです。
 ここで、「子供たちに主に触れていただき、力をいただこう」としているのは誰かと言いますと、大人たちです。ですから、それは言ってみれば、大人の身勝手な行いです。ことに魔術的な力を求めての行いであれば、なおさらのことです。子供たちが、自ら望んで主イエスのもとに来ているのではないことが前提にあるのです。
 子供たちは望んでもいないのに、連れて来られております。それは、大人が勝手に、子供のために良かれと思ってのことなのです。そこで、その場を考えてみれば、連れて来られた子供はぐずるでしょうし、時には泣き叫ぶこともある、とても騒々しい場であり、麗しい場とは言えないのではないでしょうか。あるいは、もう少し善意に考えたとしても、子供同士が集まって楽しんでいる、それもまた騒々しい場となることでしょう。
 子供にとって、いやいやであればあるほど、それは弟子たちの手には負えないことであり、連れて来た人々を弟子たちが叱ったとしても、それは自然な対応だと思うのです。このことは、教会においても同じことがありますから、私どもの誰もが思い当たる状況ではないでしょうか。子供たちに手こずって主イエスを煩わせてはならないと思う、それは弟子たちのもっともな思いなのです。

 しかし、14節「イエスはこれを見て憤り、弟子たちに言われた」と、主イエスが弟子たちの有り様を見て憤られたことが記されております。
 主イエスは、穏やかな方ではないのです。ここでは「憤り」とまで言われております。
 この主イエスの「憤り」は、神学的に言いますと、「主イエスが、神が心動かされる」ということです。子供たちが疎外されることに対して、主が心動かされてくださったのです。
 私どもは自らの平静さということを思いますが、「主イエスの憤り」とはいかなることかと言えば、それは、「神が心動かされるところに救いがある」ということであることを覚えたいと思います。「主イエスの憤り」、そこに主の御心が示されております。「主の救いの御心が動いている」のです。

 そして主イエスは、「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである」と言われました。「わたしのところに来させなさい」との、主の命令の言葉が記されております。
 ここでは、大人たちの身勝手な思いが問題にされておりません。それは問われないのです。大人たちのどんな思いであれ、子供が主イエスのところに連れて来られたことを主は良しとしておられる、どんな思いであれ「来させなさい」と言ってくださっていることを覚えなければなりません。

 「来させなさい。妨げてはならない」との主の言葉から思います。今日ほど、子供たちを主のもとに、教会へと連れて来ることへの妨げが多いことはありません。誰が連れて来ても良いと言われているのに、何が妨げているのか。勉強や塾、部活もそうですし、テレビやマンガなどもそうでしょう。現代社会の持つ多くの妨げ、そこには、子供のためにと言いながら、学びのための教材にしろ遊び道具にしろ、様々に子供を取り込み、結局は大人たちが経済活動に結びつけているのです。
 このような現代社会に示されていることとして、主イエスは妨げを退け、妨げに憤っておられるということを覚えたいと思います。主イエスは、仕方ないとは言われないのです。主は、妨げるものを憤っておられるのです。それは、「主イエスのもとにしか、祝福すなわち救いはない」からです。この世の関心事、この世の価値観は、人々を神から、救いから遠ざけているのです。
 先ほどの讃美歌の2節には、「み弟子はこどもの きたるを止めしに、わが主はやさしく ゆるしたもう」とあり、主が憤っておられることは出てきません。子供たちを迎え入れた主の優しさだけが強調されており、主の憤りを問題にしておりません。しかし、主イエスは妨げの一切を退けておられる、妨げる私どもに憤っておられるのです。私どもは、子供のためにと言って、子供たちを主イエスから遠ざけていないでしょうか。主の憤りの言葉は重いのです。

 続けて、主イエスは「神の国はこのような者たちのものである」と言われました。「このような者たち」とは誰でしょうか。それは明らかに「子供たち」です。
 「このような者」と言われる内容として、子供の純真さや汚れを知らないと解釈することがなされてきたことは、讃美歌の4節を見ても分かります。「幼な子のごとく この身をきよめて」とあります。けれども、ここでは子供の純真さを語ってはおりません。子供が主イエスのところに来る、しかしそれは大人の身勝手な思惑のゆえに来ているのであって、子供は喜んでいないのです。さらに付け加えるならば、弟子たちに対して主イエスは憤っておられるのですから、そんなに怒っている人のところに行って、子供が喜ぶはずはありません。ただただ大人の身勝手さに引きずり回されている、それが子供たちの有り様です。大人たちのなすがままに、無力な者たちです。泣き叫んで抵抗したとしても状況を変えられない、無力な弱い者たちであることが、「このような者」として示されていることです。
 大人たちの思いに翻弄されている、小さく弱く、無欲な者たち。そのような者に「神の国は相応しい」と言われております。純真な心の者、無垢な者だから救われるのではありません。大人たちの思いに翻弄され、なす術もなく従うしかない者、そのような子供たちに神の国は与えられている。神の国とは「神の恵みとして与えられている」ことが示されているのです。
 その者の有り様の善し悪しによって、神の国が与えられているのではありません。ただ、神の恵みによるのです。無力な者を神が憐れみたもう、ゆえに、神が恵みとして与えてくださる、それが神の国なのです。

 私どもは、このことを味わい深く知らなければなりません。
 今の世の中は、とても麗しいとは言えません。残念なことですが、希望を持てない社会なのです。今の社会の趨勢に抗ってみても、抗いきれない。一般社会の意識の無さ、無気力さを思います。そのようなこの世の在り方に翻弄され、力を奪われ、このままではいけないと思っても現状を変えることができない、無力で愚かで小さく、この世に巻き込まれている。それが私どもの姿です。そのような無力な者を、神は憐れんでくださるのだということは、何と感謝なことでしょう。
 もちろん、そのような考え方に対して、宗教は阿片だと言う者もいるかと思います。けれども、そうではありません。
 却って、無力さを嘆く者に与えられる神の慈しみを知ることができるならば、その人は変えられる可能性があるのです。心自由にされる。この世のちっぽけなものに頼ることから解き放たれて、ただ神によって満たされることを知るならば、私どもは、この現状を打破する力を、大きなものに立ち向かう力を得ることができるかもしれません。ですから、教会が、この世に巻き込まれて無力さを感じている者たちに対して、「無力なあなたにこそ、神の憐れみがある」ということを語ること、その大切さを思います。

 15節「はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない」と、無力な者こそ神の恵みに相応しい、神は憐れみ神の国に入ると主イエスは言ってくださいます。そして16節「そして、子供たちを抱き上げ、手を置いて祝福された」と記されております。「祝福」とは「神の力の付与」です。翻弄されるままの無力な者を、主イエスが抱き上げ、祝福を与え、力を与えてくださる、それは、主イエスがそのような者を「ご自分のものとして引き受けてくださっている」ということです。

 今、私どもの力の源泉はどこにあるのかということを、改めて覚えたいと思います。私どもの力の源は、主イエス・キリストにこそあるのです。この世に翻弄され、様々な事柄に対して無力とされる私どもが、どこで力を与えられるのか。それは、「主を思い起こす」ところで与えられるのです。そこにこそ、祝福があることを覚えたいと思います。

 連れて来られるままの者を、主イエスはご自分のものとして引き受けてくださる。翻弄されるしかない私どもを、主はご自分のものとして慈しんでくださる。その主イエスの慈しみによってこそ、私どもは神の国の民とされるのだということを、感謝をもって覚えたいと思います。

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