聖書のみことば
2014年3月
  3月2日 3月9日 3月16日 3月23日 3月30日
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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 福音のために
2014年3月第3主日礼拝 2014年3月16日 
 
北 紀吉牧師(文責/聴者)
聖書/マルコによる福音書 第10章28〜31節

10章<28節>ペトロがイエスに、「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました」と言いだした。<29節>イエスは言われた。「はっきり言っておく。わたしのためまた福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子供、畑を捨てた者はだれでも、<30節>今この世で、迫害も受けるが、家、兄弟、姉妹、母、子供、畑も百倍受け、後の世では永遠の命を受ける。<31節>しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる。」

 28節「ペトロがイエスに、『このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました』と言いだした」と記されております。ペトロはなぜ、このようなことを言ったのでしょうか。
 この前のところを振り返ってみましょう。まず、ある人が主イエスに「永遠の命を得るにはどうしたらよいか」と問い、それに対して主イエスが「持っているものを売り払って貧しい人に施し、それからわたしに従いなさい」と言われ、その人は財産をたくさん持っていたために去って行きました。そこで、主イエスは弟子たちに「金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」と、「神の国に入ることの難しさ」を言われ、その主の言葉を聞いて「それでは、だれが救われるのだろうか」と論じ合っている弟子たちに「人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ」と、主が言われたことを受けて、今日のこのペトロの言葉があるのです。

 ですから、このペトロの言葉に至るまでには経過があります。まず、ある人は「永遠の命を得る」ことを問いました。それに対して、主イエスは「永遠の命を得る」ことを「神の国に入ること」と言い換えておられ、それを聞いた弟子たちは、更にそれを「救われること」と言い表しているのです。
 つまり、「救い」とは何かということです。「救い」とは、「永遠の命を得ること」であり、「神の国に入ること」なのです。このような言い回しになっているのは、もともと違う話が一つに組み合わされているからだろうと思われます。ですから、必ずしも繋がりは良くはないのです。3つのことをそれぞれに語ってきましたので独立したものとして聴いてしまいますが、内容的には繋がっております。
 どう繋がっているかと言いますと、「永遠の命」とは「神との尽きることのない交わり」です。私どもキリスト者は、主の十字架の贖いによって罪赦された者として聖とされ、甦りの主イエス・キリストと共に、死を越えた永遠の命、神との尽きない交わりを生きる者です。それは、神が人を、神に応答する者として創られたにも拘らず、人の罪のために失われていた「人間性の回復、人格性の回復」を意味します。主イエス・キリストの十字架と復活によって、神が私どもの罪を終わりとし、私どもと和解してくださって、交わりを回復してくださったということです。「救い」とは、人の罪のために断絶していた「神との交わりの回復」ということなのです。
 「救い」を、かつては「和解」と言い表しましたし、讃美歌でも「和らぎ」と出て来る場合には、神の救いの出来事を言い表してきました。「神との尽きない交わりに入れられる」こと、それが「永遠の命を得る」ことであり、「救い」なのです。「救い」とは、「神が主イエス・キリストの十字架と復活をもって人と和解してくださり、神との尽きない交わり・永遠の命を約束してくださった」ということに他なりません。
 そしてそれは更に、私どもが「神の支配のうちに置かれる」ということをも意味します。私どもは、主の十字架と復活によって、「主のもの、神のもの」とされて、この世に属する者から「神の支配に属する者」へと移され、神の支配の内に置かれているのです。この「神の支配」、それが「神の国」です。ですから、「神の国に入れられる」ことは「救い」でもあるのです。
 私どもは、主の十字架と復活によって、既に「神の支配のうちに」あります。終末という出来事に先立って、約束という形で、既に神の国に入れられている、それが私どもの救いの出来事なのです。
 このように、「救い」とは、様々な形で語られております。

 ペトロはここで、「わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました」と言っております。この答えは、ある一面において、主の言葉を正しく受け止めている答えです。主イエスは「わたしに従いなさい」と、永遠の命を得るために「主に従う」ことを求められました。ですから、ペトロはそのことを正しく受け止めて答えたのです。
 けれども、またある一面では、正しく受け止めていないし、「従っていない」のです。ペトロは主イエスに、自らの強い意思によって従っているわけではありません。ペトロは本当に「何もかも捨てて」、主イエスに従っているかというと、そうではないのです。確かに、漁師であったペトロと兄弟のアンデレは、この福音書の1章で「網を捨てて従った」と記されておりますから、生活の糧に要するものを捨てたのかも知れません。けれども、その同じ章を読みますと、主イエスがペトロの家に行き、ペトロのしゅうとめを癒されたことが記されております。つまりペトロは、家や家族を捨ててはいないのです。また、ペトロは、主イエスが乗って湖へ漕ぎ出すための舟の用意をいたしますから、舟も捨ててはいないのです。更に、後に使徒となったペトロに妻子がいたことも、コリントの信徒への手紙に記されております。ですから「何もかも捨てて」というのは言い過ぎであり、誇張です。

 ペトロは、「主イエスに従った」ことを強調したいために、「何もかも捨てて」と言ったのでしょう。それは「わたしたちは」とありますから、ペトロだけでなく、他の弟子たちも同じ気持ちだったのです。「主イエスの弟子として、主に従ってきた」と、強く主張しているのです。
 主に従うことなく神の国に入ることはできないと言われているのですから、その気持ちも分かります。けれども、そこに潜む思いがあることを知らなければなりません。それは「だから」という思いです。「何もかも捨てて従ったのだから、永遠の命に与りたい」という思いです。
 このことは、主の言葉を正しく理解していないことを示しています。「すべてを捨てた」ことの交換条件として、救いに与るのではありません。「救い」は、ただ「神の恵みによる」のです。ペトロは、「何もかも捨てた」という自分の行為が先ずあって、その上で「主に従った」と言っております。このように人の思いが優先することは、人が第一になることです。

 「神の救いは、神の憐れみによる」ことです。神が私どもの神であってくださるからこそ、救いが起こるのだということを知らなければなりません。
 人の思いとは、とても厄介なものです。「何もかも捨てた」という思いがあれば、捨てたものへの執着があるがゆえに、自己主張も強くなるのです。人は、自分がした以上の見返りを求めてしまいます。何もかも捨てたと言ったペトロには、自己執着があるのです。生き方を変えてまで従った、だから救いを…と言っているのです。

 神の恵みの出来事としての救いは、そのような自己執着からの解放であると言えます。自己に執着することは、苦しいことだからです。恵みの出来事としての救い、それは、先ず神の行為があって、それを頂くことによって起こるのです。神がなさってくださったことを受けて、人は救われるのです。神が整えてくださったのですから、頂くこと以外にないのです。
 また更に言えば、「わたしに従いなさい」との主イエスの御言葉があってこそ、救いは起こるのです。ペトロもアンデレも、主のこの御言葉を頂いたからこそ、従えたのです。何も言われないのに自らの意志によって従ったということではありません。「わたしに従いなさい」と、主が言ってくださったからこそ、従ったのです。
 ですから、「従う」ことはそれ自体が「恵み、神の恵みの出来事」です。「神の、聖霊のお導きによって」従ったのです。「従う」という言葉ですから、自分の行為のように思いがちですが、そうではなく、「従う者となった」ということなのです。
 信仰は、しばしば自らの決断と言われます。「受洗を決断しなさい」と迫られて受洗するということもありますが、しかし、自ら決断することが信仰なのではありません。主の御言葉が与えられて、聖霊のお導きを受けて、そこで初めて「信じます」と言える、それは神の恵みの出来事です。
 「わたしに従いなさい」との、主の御言葉があってこそ従えたのだということを忘れてはなりません。御言葉の後押しがあってこそ、為せることです。ですから、従うこと自体が神の恵みの出来事であることを覚えたいと思います。

 ペトロは、主より「従いなさい」と言われ、更に「人間をとる漁師にしよう」との使命を与えられました。主に従うところに、神の約束がある、神より託される使命があるのです。主に従うことによって、「あなたはこうなるのだよ」と、その在り方まで示されるのです。
 私どもが主を信じるということは、神から恵みを頂いていることです。私どもの信念によって信じたのではありません。信じる思いを与えられたのです。このことは重要なことです。信じさせてくださったのは神なのですから、神が私どものすべてを引き受けてくださるのです。ですから、極端な言い方かも知れませんが、信じることに対しての自助努力は必要ないのです。

 自分の信念であると思えば、それは熱狂になります。そしてそれは、流血をも辞さないものとなる危険があります。自らの決断は強い自己主張になり、ひいては他者を抹殺することも起こるのです。

 私どもの信仰、それは「神がくださった恵み」です。神が私どもを信じる者としてくださっているから、だからこそ、私どもは信仰者でいられるのです。くれぐれも自らの内に根拠を持って信じてはなりません。自分に根拠があるとすれば、自分の根拠が揺らげば、信じられなくなってしまうからです。
 そうではなくて、神に根拠がある、だから私どもの信仰は揺るぎないのだということを覚えたいと思います。「そんなことで、あなたはクリスチャンですか」と、あるいは言われるかも知れません。けれども良いのです。私どもの信仰は、恵みとして与えられた信仰なのです。

 ここで私どもは、救いとは、何もかも捨てるという清貧の出来事ではないことを覚えたいと思います。「何もかも捨ててあなたに従って参りました」と言った無理解なペトロに対して、主イエスは何と言われたのでしょうか。
 29節「はっきり言っておく。わたしのためまた福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子供、畑を捨てた者はだれでも、今この世で、迫害も受けるが、家、兄弟、姉妹、母、子供、畑も百倍受け、後の世では永遠の命を受ける」と言われました。この言葉を、ペトロはまた誤解したことでしょう。けれども、ペトロの無理解にも拘らず、主イエスは彼を叱ることなく、無理解を越えて、「捨てなくてはならないとしても、それ以上の恵みを受ける」と言ってくださっております。
 「福音のために」、それは「わたしのために」、すなわち「主イエスのために、何もかも捨てる」ということが起こると言われる。いえ、それは自ら捨てるということだけではなく、迫害という形で「この世から捨てられる」ことが起こると言っておられるのです。

 ここで、「家、兄弟、姉妹、母、父、子供、畑を捨てた者は、迫害も受ける」が「家、兄弟、姉妹、母、子供、畑も百倍受け、後の世では永遠の命を受ける」という言葉を見ますと、家族の中で先にはあって後には出て来ない言葉があります。それは「父」です。後の「父」は「神」を意味するゆえに出て来ないのです。今、この世で、家族や畑(職場)は失っているはずですが、にも拘らず「百倍受ける」と言われております。それは、後の世においては、「神のもの、キリストのものとして、父なる神の家族の一員である」ことを示しているのです。神の家族として、百倍の恵みを頂くということを言っているのです。

 血のつながりのある家族だけが全てなのではありません。聖霊によって繋がった家族の方が、より豊かであることが、ここに示されております。父なる神の家族として、孤児とはならない。福音のために、すなわちキリストのために迫害を受けるあなた方、主の弟子たちは、後の世で永遠の命に与る、救いに与る。それはどれほど大きな恵みであるか、思いを越えた大きな恵みであることが「百倍」という言葉に示されていることです。

 私どもは、もちろん血筋による大切な家族を与えられておりますけれども、それだけではなく、信仰による大いなる家族、「神の家族」という「霊による繋がりを頂いている」ことを覚えたいと思います。
 信仰の出来事は、孤立した出来事ではありません。信仰の出来事は「大いなる神の民の共同体に入れられる」という出来事です。「神を父とする、大いなる共同体」、それは血筋や人種や階級やすべてを越えた大いなる共同体です。その大いなる神の共同体の内に、今、私どもも置かれているのだということを覚えたいと思います。

 そして同時に、救いの恵み、永遠の命を「約束」という形で、今既に与えられているのだということをも、感謝をもって覚えたいと思います。

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