聖書のみことば
2016年12月
12月4日 12月11日 12月18日 12月25日  
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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12月11日主日礼拝音声

 ザカリアの讃歌
2016年12月第2主日礼拝 2016年12月11日 
 
宍戸俊介牧師(文責/聴者)
聖書/ルカによる福音書 第1章57節〜80節

1章<57節>さて、月が満ちて、エリサベトは男の子を産んだ。<58節>近所の人々や親類は、主がエリサベトを大いに慈しまれたと聞いて喜び合った。<59節>八日目に、その子に割礼を施すために来た人々は、父の名を取ってザカリアと名付けようとした。<60節>ところが、母は、「いいえ、名はヨハネとしなければなりません」と言った。<61節>しかし人々は、「あなたの親類には、そういう名の付いた人はだれもいない」と言い、<62節>父親に、「この子に何と名を付けたいか」と手振りで尋ねた。<63節>父親は字を書く板を出させて、「この子の名はヨハネ」と書いたので、人々は皆驚いた。<64節>すると、たちまちザカリアは口が開き、舌がほどけ、神を賛美し始めた。<65節>近所の人々は皆恐れを感じた。そして、このことすべてが、ユダヤの山里中で話題になった。<66節>聞いた人々は皆これを心に留め、「いったい、この子はどんな人になるのだろうか」と言った。この子には主の力が及んでいたのである。<67節>父ザカリアは聖霊に満たされ、こう預言した。<68節>「ほめたたえよ、イスラエルの神である主を。主はその民を訪れて解放し、<69節>我らのために救いの角を、僕ダビデの家から起こされた。<70節>昔から聖なる預言者たちの口を通して 語られたとおりに。<71節>それは、我らの敵、すべて我らを憎む者の手からの救い。<72節>主は我らの先祖を憐れみ、その聖なる契約を覚えていてくださる。<73節>これは我らの父アブラハムに立てられた誓い。こうして我らは、<74節>敵の手から救われ、恐れなく主に仕える、<75節>生涯、主の御前に清く正しく。<76節>幼子よ、お前はいと高き方の預言者と呼ばれる。主に先立って行き、その道を整え、<77節>主の民に罪の赦しによる救いを 知らせるからである。<78節>これは我らの神の憐れみの心による。この憐れみによって、高い所からあけぼのの光が我らを訪れ、<79節>暗闇と死の陰に座している者たちを照らし、我らの歩みを平和の道に導く。」<80節>幼子は身も心も健やかに育ち、イスラエルの人々の前に現れるまで荒れ野にいた。

 ただ今、ルカによる福音書1章57節から80節までをご一緒にお聞きいたしました。64節に「すると、たちまちザカリアは口が開き、舌がほどけ、神を賛美し始めた」とあります。
 ザカリアは先に、神によって口を聞けなくされていました。ザカリアは天使ガブリエルを通して、彼がまだ若かった頃、懸命に祈った祈りが今になって聞き届けられるのだと聞かされました。「あなたの捧げる祈りは、どんな祈りであっても神がきっと耳を傾けて聞いてくださっている。そして、神が御心のうちに定められた時にその祈りを聞き届け、地上に御業を実現してくださる」ということを、ザカリアは、はっきりと聞かされ、身をもって知らされました。ところがザカリアは、自分の祈りが聞かれるという大変嬉しいその時に、不信仰に陥りました。若い日、子供が与えられるようにと熱心に祈っていた時には「きっと神はこの祈りを聞いてくださるに違いない」と信じて祈っていたはずです。なのに、その祈りが聞かれたという喜ばしい知らせを聞いた時に、彼は疑いました。「高齢に自分にどうして子供など生まれるだろうか。妻も高齢なのに、どうして子供など産めるだろうか」と、ザカリアは考えました。人間的な理性からすれば、これはごく当たり前の反応だと思います。もしかすると、私たちであっても、同じようなことを考える時があるかもしれません。
 しかし、神というお方は、一体、人間の理性の範囲内だけで活動なさるお方なのでしょうか。私たちは人間の理性で考えて、いかにも可能だと思うことだけしか祈ってはならないのでしょうか。そうではありません。神は御心であれば、人間の理性を超えることをなさる場合があるのです。人間の理性では決して思いつかないようなことを神は時々なさいます。57節58節に「さて、月が満ちて、エリサベトは男の子を産んだ。近所の人々や親類は、主がエリサベトを大いに慈しまれたと聞いて喜び合った」と語られています。近所の人々や親類は、神が大きな慈しみを現してくださったことを知って喜んでいます。

 ところで、この幼子の誕生については、「月が満ちて、エリサベトは男の子を産んだ」と、事実だけが大変簡潔に述べられています。誕生についてはそっけない記述ですが、8日目の割礼と名付けについては丁寧に語られています。当時、イスラエルの家に生まれた男の子には、誕生から8日目に割礼を施す習慣がありました。ザカリアもエリサベトも神の定められた掟を全て守り、その点では非の打ち所のない夫婦でしたから、掟通り、割礼を施し、その後でその子の名付けが行われるはずだったのですが、その時になって少し揉め事が起こりました。普通であれば、生まれて一週間の間に、息子の名前を決めて、それを父親が発表すれば事足りることです。ところが、父のザカリアは神殿での出来事以来、舌がもつれて口が聞けません。ですから恐らく、代わりに妻のエリサベトが「ヨハネという名前にします」と発表したのです。ところが、この名前に対して親族たちから異議が申し立てられました。その理由は、由緒正しい祭司の家系であるザカリアの家には、これまでそういう名前はなかったというものです。親戚たちは、ザカリアが口を聞けないことを良いことに、エリサベトが勝手に好きな名前をつけたのではないかと疑ったようです。夫が口を聞けないので、妻がまるで夫の代理のような顔をして、これまでザカリアの家では付けたことのない新しい名前を持ち込もうとしていると考えました。それで、ザカリアの意思を尋ねようということになるのです。口が聞けませんので、書き板が持ってこられます。63節に「父親に、『この子に何と名を付けたいか』と手振りで尋ねた。父親は字を書く板を出させて、『この子の名はヨハネ』と書いたので、人々は皆驚いた」とあります。人々は皆驚いたわけですが、しかし父ザカリアの言葉にひとまず納得しました。

 ところでザカリアは、この時このように行動したことで、9か月前に天使ガブリエルから言われていた事柄に忠実に従ったことになります。9か月前にはガブリエルの言葉を疑ったために口を聞けなくなっていたのですが、ザカリアは今、神のなさりように従順に従ったがゆえに、再び語ることができるようになります。舌が解けたザカリアが一番最初に何を語ったかということは、ここには記されていません。64節にはただ「すると、たちまちザカリアは口が開き、舌がほどけ、神を賛美し始めた」と書いてあるだけですので、ザカリアがどんなふうに神を賛美したのかは分かりませんが、こういう成り行きによって、この出来事を目撃した近所の人たちや親類は、ザカリアがこの時まで口が聞けなかった出来事には神が関わっておられたのだということを悟って、恐れを覚えました。65節に「近所の人々は皆恐れを感じた」とあります。神が関わりをお持ちになる、そういうところではいつも、その出来事に触れることのできた人たちの間に恐れが生じてくるものなのです。人々はこの日の出来事に驚いただけではなく、神に対する恐れに捕らわれました。66節には「聞いた人々は皆これを心に留め、『いったい、この子はどんな人になるのだろうか』と言った。この子には主の力が及んでいたのである」とあります。
 そして、この出来事に続いて「ザカリアの讃歌」というザカリアの言葉が語り始められます。ザカリアの讃歌自体は、幼子がどんな人に育つかという内容以上のことが語られています。67節には「父ザカリアは聖霊に満たされ、こう預言した」とあります。この言葉は、ザカリアが自分で考えて語ったのではなく、聖霊に満たされて語った預言の言葉だったと言われていますが、まさにザカリアは息子の将来のこと以上に、大きな幻を示されて語っているのです。
 聖書に明るい祭司であったザカリアは、口の聞けなかった期間、しきりに旧約聖書のいろいろな言葉を思い巡らしながら、今自分の身に生じている出来事がどういうことなのか、神によって口を閉ざされている出来事がどういうことだったのかを考えていたと思います。そして、口が開けたこの時に、まるで堰を切るように、自分に示された幻を語り始めます。ザカリアがこの日語ったのは、父親として息子にどういう期待を寄せているということでもないし、どう育てるかという抱負でもありません。そうではなく、遥か彼方を見据えるようにして、ザカリアは語り出します。68節69節に「ほめたたえよ、イスラエルの神である主を。主はその民を訪れて解放し、我らのために救いの角を、僕ダビデの家から起こされた」とあります。

 旧約聖書を読んでいますと、「角」という言葉が出てきて、それはしばしば、高慢さの表れとして語られます。あるいは、角は獣の生やす野生的なものの象徴で、人間の手では治めきれない、人間の手に負えない、凶暴な破壊する力の象徴として出てきます。中世のヨーロッパの紋章などには、しばしば角のデザインが強さを表すデザインとして、盾や兜などに描かれています。近世以降も、悪魔が人間の姿をしているけれども角を生やし尻尾を持っている姿で描かれたりしています。
 神はしかし、ここで一本の角をお立てになります。それはダビデの家から出る「救いの角」です。邪悪な破壊する勢力としての角ではありません。71節に角について「それは、我らの敵、すべて我らを憎む者の手からの救い」と説明されます。ここにはとても重要な事実が語られています。それは「神の民が憎しみを受ける」ということです。神の民は憎まれるけれども、そこから救いの角が起こされるというのです。
 しかし、どうして神の民であるイスラエルが憎まれるのでしょうか。それは、イスラエルの民が人間的な落ち度や欠けを抱えているということだけではありません。イスラエルの民に与えられている性格があって、そのために憎まれるのです。神を知らず神抜きで生きている大方の人たちの間で、このイスラエルの民だけは神を信じて生きていこうとする、そのあり方が周りから理解されずに異質なものとして排除されたり憎まれたりするのです。イスラエルが「神の民とされている」という性格を持っているために憎まれます。言い換えれば、イスラエルの民が神の民として生きようとする、その使命を持っているために、イスラエルの民は諸々の神を持つ人々から異質なものとして疎んじられ、退けられ、憎まれることになるのです。
 「神に従う」という生活は、この地上では必ず摩擦が生じます。皆さんもそうではないでしょうか。「わたしは信仰生活を送っているけれど、全く周りと摩擦がないので、楽しく教会生活を過ごしております」という方は、あまりいらっしゃらないのではないでしょうか。教会の礼拝に行くのに、あるいはキリスト者として行動するのにも、いろいろな時に、キリスト者として摩擦を生じる中で、私たちはどうやってキリスト者として生きていったら良いのか、しばしば考えざるを得ないという時があると思います。イスラエルの民と同じように、私たちも、周りの人たちから信仰を尊重してもらえなくて悩んだり困ったりすることがあるのです。しかし神は、そういうイスラエルを救うために「一本の角をお立てになる」と、ザカリアは預言しました。この「角」に懸命に取りすがることで、捕まることで、イスラエルの人々はどうにか神の民としてこの地上を歩んでいけるようにされるのです。

 ところで、イスラエルの敵、神に従う生活の敵は、神を知らない他国の人、異邦人からだけやってくるのではありません。これは後の日にはっきりすることになるのですが、あろうことか、神が立てて下さった救いの角がへし折られるような事態が起こります。そして、この角を折ったのは誰かというと「我こそはイスラエルの民の代表だ」という自負心を持っている人たちであって、彼らによって、救いの角である主イエス・キリストは十字架の上に磔にされるということが起こるのです。ここでザカリアが預言しているのは、幼子ヨハネのことではなく、主イエス・キリストのことです。真の救いの角として来られたこの方は、本当に大きな方です。イスラエルの民を憎む外敵や、救いの角に逆らう内なる敵に勝って力を持っておられます。神がこの角を通してご自身の約束を果たしていかれるのです。72節に「主は我らの先祖を憐れみ、その聖なる契約を覚えていてくださる」と言われます。
 救いの角であるお方はへし折られます。十字架に架けられて殺されるのです。しかしそれでも、そのことを通して神の聖なる契約、神のなさってくださった古い約束は実現されていくのです。この讃歌の中で、ザカリアはしきりと「神がイスラエルの民を憐れんでくださっている。憐れんで救い出してくださる」と繰り返して言います。「救いの角」という言葉にすでに「救い」と言われていますが、「憐れみをかけてくださる。救ってくださる」と繰り返しているのです。
 この「救い」とは一体何でしょうか。イスラエルは何に向かって救われていくのでしょうか。73節から74節に「これは我らの父アブラハムに立てられた誓い。こうして我らは、敵の手から救われ、恐れなく主に仕える」と言われます。72節の「聖なる契約」とか、この「恐れなく主に仕える」と聞かされますと、私たちは一つの言葉を思い出すと思います。出エジプトの時に神がモーセに約束してくださった言葉です。出エジプト記3章12節「神は言われた。『わたしは必ずあなたと共にいる。このことこそ、わたしがあなたを遣わすしるしである。あなたが民をエジプトから導き出したとき、あなたたちはこの山で神に仕える』」。「神を礼拝し、神に仕えること」それが、出エジプトの目的でした。ですから、モーセが最初にエジプトのファラオの元に行った時に言ったことは「イスラエルの神、主がこう言われました『わたしの民を去らせて、荒野でわたしのために祭りを行わせなさい』。だからわたしは、この民を導き出したいのです」ということでした。しかし、ファラオは抵抗したために災いが下されました。イスラエルが解放されるということは、「神に向かって礼拝する」ことに向かって解放されていくのです。イスラエルが救い出されていくのは、「神を礼拝する自由に向かって導かれていく」ことです。
 そして、この自由とは、私たちキリスト者の自由の特徴ともなっています。私たちが救い出され、本当に自由な者として生きていく。それは、神にお仕えして生きるために与えられているものなのです。日曜日に礼拝に来る。そして聖書の御言葉の説き明かしを聞いて、分かって少しほっとした気持ちになり、嬉しい思いになって新しい一週間を歩み出して行く。そんな経験がどなたにもあるのではないでしょうか。もし、そういうことが何もなかったら、毎週毎週礼拝に来ようという気持ちにはならないでしょう。私たちはそのように、朗らかな晴れやかな気持ちになって生活していく、それは何のためかとあまり考えず、自分が嬉しい気持ちになることが目的だと思ってしまいがちですが、実はそうではありません。私たちは、神から命を与えられた者として、「ここで生きていて良いのだよ」と、神に言われています。神から与えられている命を神の前で生きて良いと言われるから、私たちは、元気になるのです。そしてその命は「神に感謝して日々を送っていくこと」に向かっていくはずです。
 ですから、キリスト者の自由というのは、自分が嬉しければあとは神抜きで自分勝手に生きていけば良いということではなく、「神に感謝し、また神への畏れを覚えながら、神に仕えていく生活」へとキリスト者を押し出していきます。

 それでザカリアは、今日の讃歌の中で73節から75節「こうして我らは、敵の手から救われ、恐れなく主に仕える、生涯、主の御前に清く正しく」と預言しています。「神に仕える生活」というのは、「恐れなく」また「生涯にわたって」行われなくてはなりません。けれども、私たちは果たして、そのように、神に恐れなく生涯にわたって仕えることができるのでしょうか。自分の心は自分でもままならないところがあって、移り気です。どうすれば私たちは、「恐れなく生涯にわたって神に仕える」ことができるのでしょうか。それについてザカリアは、先ぶれとなるヨハネの務めに触れながら語っています。76節「幼子よ、お前はいと高き方の預言者と呼ばれる。主に先立って行き、その道を整え」と言われます。
 ヨハネの務めとして言われる「道を整える」とは、どういうことでしょうか。それは、私たち人間を神から引き離している全てのものが、ヨハネによって取り除かれていくということです。神の前に立つ時に、私たちは不安や恐れを持たざるを得ません。自分は本当に神を信じ続けて生きていけるのだろうか。神に信頼して、喜んで神に仕えて生きる生涯を送ることができるのかと、不安を覚えざるを得ませんけれども、ヨハネは、そういう不安や恐れを取り除く務めをするのです。もう少しはっきり言いますと、「罪が赦されるということによって成り立つ救いがあるのだ」ということを宣べ伝えるのです。ヨハネの務めは、私たちを神から隔てている罪、この罪が「赦される」ことによって取り除かれて、神の前で、神と一つのものとされた存在として生きることができるという道があることを告げ知らせるのです。「あなた方には救いがある。神抜きで生きているあなた方の背きの罪を赦してくださる。だから、神を侮らず、神を信じて生きていきなさい」と宣べ伝えることがヨハネの務めなのです。ですからザカリアは、77節で「主の民に罪の赦しによる救いを 知らせるからである」と言っています。主イエスの先ぶれとしてのヨハネの務めは、「主の民に罪の赦しによる救いを知らせること」です。
 ザカリアはこの日、イスラエルの中から一本の角が起こされるのだと幻で示されました。そして、救いの角である方を宣べ伝える光栄な務めが、我が子に与えられていることを喜びました。けれども、それら一切のことは「神の憐み」によって起こるのです。78節に「これは我らの神の憐れみの心による。この憐れみによって、高い所からあけぼのの光が我らを訪れ」とあります。一本の角が立てられることによって、「罪の赦しによる救い」がもたらされる。それは神の最も深い御心から出ています。
 マルティン・ルターは、78節の「神の慈しみ溢れる憐れみから出たことだ」と訳しました。この憐れみは「高い所から、あけぼのの光が我らを訪れるように訪れる」と言われています。これは、私たちが普通に考えていることと逆のことです。私たちは、憐れみとか慈しみは、辛い思いでいる人に共感して、低いところから始まるのだと考えます。しかし、聖書は違うことを言います。本当の神の憐れみは、私たち人間から始まるのではなく、「高いところから私たちを訪れる」のです。神の憐れみは上からやってきて、私たちに臨み、そして私たちを引き上げようとしてくださるのです。

 ザカリアの讃歌は、まだここでは預言でしかありません。実際には、どうなっていくのでしょうか。一本の救いの角として立てられた方は、イスラエルの歴史の中でへし折られます。その救いを先ぶれ役として告げ知らせたヨハネも、領主ヘロデに捕らえられて、首を刎ねられて死んでいきます。そして、イスラエルの民は、相変わらず「暗闇と死の陰に座して」いて脅かされているように見えます。ザカリアの讃歌は、上から、あけぼのの光が射すように、私たちの上に神の憐れみが臨み、罪が赦されて救いに導かれる時が来るのだという約束ですが、しかし、それは本当に起こったのか。それは、信仰を持たないで見れば、そんなことは起こらなかったと言う人も大勢いたことでしょう。けれども、何も起こらなかったのかというと、そうではありません。ザカリアがここで預言したことは、確かに起こりました。
 人間は幼い時から心に図ることは悪いのだと、神はご存知で、そしてその方が、ここに生まれたヨハネを「いと高き方の預言者」と呼ばれるようになるとおっしゃってくださっています。地上では誰もヨハネを認めなかったとしても、神がヨハネを認め、「お前はわたしの預言者である」と言ってくださるのです。そういう仕方で、ヨハネは、預言者として神から与えられた務めを全うしていきます。
 こういう言葉を聞かされながら、私たちは、自分自身のことを考えても良いのではないかと思います。私たちはもちろん、一人一人が預言者にされているわけではありません。しかし私たちは、上から語りかけられ、宣言されていることがあるのです。ヨハネの場合にはそれは、「お前は、いと高き方の預言者と呼ばれる」という言葉です。しかし、私たちの場合には「あなたは、主イエス・キリストのものだ。キリスト者と呼ばれるようになる」という宣言が一人一人の上に語りかけられているのではないでしょうか。
 ヨハネは生まれてすぐ、ザカリアを通して、自分が「いと高き方の預言者になる」のだと聞かされました。もちろん、この時にはヨハネはまだ赤ん坊ですから、語りかけられても理解しなかったでしょう。けれども、神はヨハネの上に、ザカリアの口を通して宣言してくださいました。そしてヨハネは、実際に、神のお立てになった救いの角を指し示す預言者として歩んでいくことになります。
 私たちがキリスト者になったのも同じようなことではないでしょうか。私たちは、それぞれ自分でキリスト者になったのだと思っているかもしれませんが、一人でになったのでも自分からキリスト者になったのでもないはずです。私たちは誰かから、神のことを知らされ、主イエスを知らされて、教会へと導かれました。そして、この教会の中で一人一人、私たちは名を呼ばれ、祈られて、教会の民に加えられてきました。それが、私たちがキリスト者になった時の姿です。
 ザカリアの口を通して、神が、生まれてきたヨハネに対して「お前は、いと高き方の預言者と呼ばれるだろう」と宣言してくださっている、それと同じように、私たちが自分の愛する者を「あなたは、キリストのものになるだろう」と語る言葉を神がお持ちにならないと言えるでしょうか。私たちはどうやってキリスト者になるのか、人間には分からないところがあります。人間的に何を教えたら人を信仰へと導けるかが分かっていれば、とても簡単でしょうし、皆ですればキリスト者は増えるのでしょうけれども、実際には、私たちは、どうすれば家族や親しい友人を主イエスに導けるのか、分からないところがあります。分からないので、私たちは大変消極的になるのです。
 しかしそれは、私たち人間のすることではありません。神がザカリアの口を通してヨハネに宣言されたこと、それはザカリアがそうなるように育てるということではなく「神がなしてくださる」ということです。そうであれば、私たちも、愛する家族や親しい友人たち、あるいは今日出会ったばかりの人に対してでも、その方の救いを祈って、神の働きを待ち望む者とされたいと思います。「あなたはきっとキリスト者になります。あなたはそのために、わたしと出会わされています。わたしはどうすれば良いかもわからない小さい者だけれど、しかし、神がわたしの口を通して、あなたに語りかけてくださっているかもしれません。あなたは、キリスト者になります」と語り、祈り、神の働きを待ち望む、そういうあり方をする者でありたいと願います。
 ザカリアは、ヨハネについて語り始める前には、口を閉ざされていました。口を閉ざされていたザカリアが口を開いた時に、神の御言葉を宣言する者として用いられました。もしかすると、私たちの祈りも、同じように神に用いられるかもしれません。私たちは、自分の祈りを全部は覚えていないかもしれませんし、忘れるかもしれませんが、しかし、たとえ私たちが忘れても、神は祈りを必ず聞き届けてくださっています。何事につけ、私たちが願いを神に祈って良いのだと思わされます。そして、祈ったことは聞き届けられたと信じて良いのだと思わされます。
 神の働きに期待して歩む者とされたいと、クリスマスの季節にそう思いながら過ごしたいと願います。

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