聖書のみことば
2018年1月
  1月7日 1月14日 1月21日 1月28日  
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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1月14日主日礼拝音声

 信仰があれば
2018年1月第2主日礼拝 1月14日 
 
宍戸俊介牧師(文責/聴者)
聖書/マタイによる福音書 第17章14〜20節

17章<14節>一同が群衆のところへ行くと、ある人がイエスに近寄り、ひざまずいて、<15節>言った。「主よ、息子を憐れんでください。てんかんでひどく苦しんでいます。度々火の中や水の中に倒れるのです。<16節>お弟子たちのところに連れて来ましたが、治すことができませんでした。」<17節>イエスはお答えになった。「なんと信仰のない、よこしまな時代なのか。いつまでわたしはあなたがたと共にいられようか。いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか。その子をここに、わたしのところに連れて来なさい。」<18節>そして、イエスがお叱りになると、悪霊は出て行き、そのとき子供はいやされた。<19節>弟子たちはひそかにイエスのところに来て、「なぜ、わたしたちは悪霊を追い出せなかったのでしょうか」と言った。<20節>イエスは言われた。「信仰が薄いからだ。はっきり言っておく。もし、からし種一粒ほどの信仰があれば、この山に向かって、『ここから、あそこに移れ』と命じても、そのとおりになる。あなたがたにできないことは何もない。」

 ただ今、マタイによる福音書17章14節から20節までをご一緒にお聞きしました。一人の父親が主イエスの前に現れて、憐れみを切に祈っています。14節から16節にかけてをもう一度お読みします。「一同が群衆のところへ行くと、ある人がイエスに近寄り、ひざまずいて、言った。『主よ、息子を憐れんでください。てんかんでひどく苦しんでいます。度々火の中や水の中に倒れるのです。お弟子たちのところに連れて来ましたが、治すことができませんでした』」。主イエスが山に登られ、そこで、姿が変わったという出来事が直前に語られていました。ペトロは大変感激して、その山にずっと留まっていたいと願ったほどでしたが、主イエスは山から下って来られました。すると、その山の麓では、留守を守っていた弟子たちが病気の子供を抱えた父親の願いに応じ切れずに右往左往していたというところから今日の話は始まります。
 山を下りてきた主イエスに向かって父親は、「お弟子たちのところに連れて来ましたが、治すことができませんでした」と語りました。弟子たちの無力さ、それが今日の出来事の中心にあることです。治せなかった、そういう弟子たちの無力さの理由は一体どこにあるのか、弟子たち自身も後で尋ねていますが、それが語られている大切なことです。

 その前に、父親が連れてきた子供の病気について少し考えてみたいと思います。これはなかなか厄介な病気だったと思います。「てんかん」と言っていますから、この父親は、まず最初に主イエスのところに来たのではないだろうことが分かります。既に、医師に自分の子供を診せていて「あなたの息子はてんかんです」と言われているのです。厄介なことに「てんかん」という病気は、発作が起こっている時には引き付けが起こって息が止まりそうになって大変なのですが、発作が終わってしまうと、何事も無かったかのように普通に生活できますから、父親が息子を連れて来て「この子はてんかんなのです。癒してください」と言われても、連れて来ることができた状態だったのであれば、その子の様子には、はっきりとした具合の悪さが見えていなかっただろうと思います。そう考えますと、弟子たちはどうしたらよいか分からなかっただろうと思います。
 私たちも互いにそうでしょう。誰かの辛い状況とか苦しみを知って、執り成しの祈りを捧げるということはあるでしょう。けれども、そういうことが分からない人であっても、誰もが悲しみや苦しみや問題を抱えているだろうということは薄々分かるのです。しかし、だからと言って何か起こっているように見えない人について、どのようにしてあげることができるでしょうか。
 弟子たちは、「我が子がてんかんなのです」と訴える父親の言葉は聞いたのですが、一体どうしたらよいか分からなかったでしょう。ここには書いてありませんけれども、恐らく宥めて家に帰したと思います。父親は主イエスの弟子にお願いしたのだから治ったと思ったでしょうが、再び発作が起きてしまい、どうしようもない思いを持って、もう一度弟子たちを訪れたのでした。今日であれば、この病気は投薬で8割方治るそうですが、1世紀の世界では、医師は診断を下せても治療法を知らなかったと思います。ですから、医師から「あなたの息子はてんかんです」と告げられてもどうなるものでもありませんから、途方に暮れて、主イエスの許を訪ねて来たのでした。けれども、主イエスが不在だったので、主イエスから癒しの権能を与えられていると言われている弟子たちなら何とかしてくれると考えて相談したのでした。
 ところが、弟子たちは無力でした。どうしてでしょうか。弟子たち自身もそのことを不可解に思っています。19節に「弟子たちはひそかにイエスのところに来て、『なぜ、わたしたちは悪霊を追い出せなかったのでしょうか』と言った」とあります。当時は、「てんかん」は悪霊の仕業だと考えられていましたので、こう語られています。

 主イエスは12人の弟子たちに、「悪霊を追い出す権能」を与えておられました。マタイによる福音書の、今日の箇所の前の10章1節に「イエスは十二人の弟子を呼び寄せ、汚れた霊に対する権能をお授けになった。汚れた霊を追い出し、あらゆる病気や患いをいやすためであった」とあります。8節にも「病人をいやし、死者を生き返らせ、重い皮膚病を患っている人を清くし、悪霊を追い払いなさい。ただで受けたのだから、ただで与えなさい」とあります。主イエスは、あらゆる病気を癒すために弟子たちに権能を与えてくださいました。そうであれば、目の前に現れたてんかんの子供の病気も治せたに違いないと弟子たちは考えたでしょうが、治せなかった、それが弟子たちの腑に落ちない点でした。弟子たちはこの出来事を通して自分たちのあり方に疑問を持ちましたが、このことは弟子たちの問題だけに止まらないのではないかと思います。他ならない私たち自身も、実は自分のキリスト者としてのあり方について、聖書の御言葉を聴きながら不思議な思いになることがあるのではないでしょうか。

 例えば、主イエスを信じて洗礼を受けた人は、「ただ一人孤独に死ぬことはないのだ」と主イエスは言われます。ヨハネによる福音書11章25節26節に「イエスは言われた。『わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか』」とあります。弟子はこう問われたのですが、私たちもこのように問われると困るのではないでしょうか。どう答えるでしょうか。ここではマルタが、「終わりの日に死者の復活があることは存じています」と答えています。私たちもマルタと同様に、あるいは「主イエスが十字架の死から甦って来られたことを信じます」という程度にしか答えられないのではないでしょうか。実は、私たちも弟子たちも、主イエスから途方もないものを約束されているのかもしれません。そして、日頃の私たち、弟子たちは、主イエスが与えようとしておられるそのものから考えると、大変慎ましやかなものですっかり満足してしまい、それが全てだと思い込んでいるのかもしれません。

 私たちは、「重荷を負う者は、だれでも、わたしのもとにきなさい。休ませてあげよう」という言葉は喜んで聞きます。「主イエスがわたしの重荷を負ってくださる。どんなことがあっても主イエスの助けがある」と思うと、私たちは喜ぶのです。しかし、その時に私たちが思っている重荷とは、一体何なのか。人生の中の気がかりなこと、自分の心にかかっている重いものが重荷なのだと思っています。けれども、私たちにとっての究極的な重荷、誰もが経験しなくてはならず、それを自覚したならば重くて重くてやりきれないほど重いものは何かというと、「私たちは死ななければならない」ということだろうと思います。私たちは普段、そのことを考えていないので、自分が重荷を抱えているとは思いもよらないのです。生きていることを考えていますから、そこで少しのつまずきや障害があると、それが重荷なのだと思って大層に考えてしまうのです。しかし、私たちが生きて、人生の最後まで歩んだ時に、気付かされるのではないでしょうか。「今まで気づかなかったけれど、わたしの重荷はこれから死ななければならないということなのだ」と、しみじみと思わされるのではないでしょうか。私たちが死ななければならないということと比べると、とても小さいことを重荷だと思って、私たちは暮らしているのです。そして、それが支えられることが、主イエスが「重荷を負う者は、わたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」とおっしゃっていることなのだと考えるのです。しかしそれは、主イエスが下さろうとしていることそのものから考えると、とても小さいものなのです。
 ここで、てんかんの子供の父親は、1世紀には治しようのない病気であるという現実を医師から突きつけられて、本当に重荷を背負い込んでしまいます。それは言うなれば、今日的には、自分や自分の愛する者が癌の告知と余命宣告をされたと等しいことと思います。医者に診てもらっても治らない。ではどうしたら良いのかと思った時に、「そう言えば、死んだ人も生き返らせるという話も聞くし、病人を癒してくれるらしい、あの人のところに行こう」と思って、主イエスのもとにやって来るのです。そういう意味で、この父親は自分の死からはまだ遠いのですが、自分の一生をかけて最後に出会う重荷に、子供の病気を通して直面させられている、重荷を負って、やって来ているのです。そして「あなたたちの先生なら癒せるはずだ。あなたたちも先生から権能を与えられているのなら癒せるに違いない。どうか助けてください」と訴えているのです。

 ところが、弟子たちは無力でした。ここに述べられていることは、弟子たちが癒せなかったという無力の問題ですが、同時に、洗礼を受けて「わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない」と言われている私たち自身の問題でもあるのです。
 私たちは自分の死に直面する、その時にこそ、主イエスが本当にこのわたしの重荷を負ってくださっているのだということを知るようにされていきます。実は私たちは、自分の人生を生きる中で、最後に直面するその重荷に向かって生かされている、そう言っても良いだろうと思います。そして一番最後のところで、「肉体の死を迎えても、なお、主イエスがわたしと共にいて、わたしを生かしてくださる」、その答えを与えられるために生かされていると言って良いだろうと思います。そういう意味で、この父親は、まさしく正しい方に正しいことを願っているのです。
 主イエスが来られた時に、この父親は、弟子たちなど眼中にないように、願っています。15節「言った。『主よ、息子を憐れんでください。てんかんでひどく苦しんでいます』」。「主よ」と呼びかけるのです。「直すことができない病気で苦しんでいるその子を、どうか憐れんで助けてください。神の憐れみがこの子に与えられますように」と願っているのです。まさにこれこそが父親の願いであり、そして正しい願いです。神の憐れみによって、たとえこの子が不治の病いを負っていても、明日をも知れない人生を生きる中を歩んでいても、どうかここに命をくださいと願っているのです。
 そして弟子たちは、この父親が願っているものを持っていないのです。自分たちは、様々な病を癒す権能を与えられ、目の前の問題を解決する力を与えられているという、そのことで喜んでしまっているのです。恐らく、私たちが信仰について抱いている期待というのも、そういうところが多いのではないかと思います。自分たちに与えられる問題に対して、正しく身を処して向かっていく力が与えられたら、それが信仰の値打ちだと思っているかもしれません。
 ところが、主イエスは違うのです。「たとえ、あなたが地上で様々な問題に出会ってそれに対処して歩んでいったとしても、最後には、やはり『死ななければいけない』という重荷がある。わたしはその重荷を背負ってあげる」。主イエスが十字架に向かって歩んで行かれたところには、そういう秘密があるのだろうと思います。主イエスがなぜ「十字架に架かって」、神の救いを私たちに与えようとなさったのか、それは私たちが、死という重荷を抱えて生きているからです。重荷を背負う私たちと共に歩んでくださるためには、主イエスも死ななければならなかったのです。

 私たちは、死という重荷を抱えて生かされています。そして、そういう重荷に対して私たちは無力なのです。どんなに嫌だと思っても、逃れることができずに死の時はやって来ます。私たちは、自分の肉体の死に対して無力であることを認めざるを得ません。そして、それを認めてしまうと、すっかり元気がなくなり、死の手前の生かされているはずの時間も、力を失うということが起こるのです。またそれは、肉体の死に直面している時だけではないと思います。自分の無力さを思わされる時というのは、様々にあるのです。仕事がどうしても上手くいかなかったり、愛していると思う人にフラれてしまうとか、様々ありますが、そういうことは全て、実は、究極的には、私たちが死すべきものであるということを表すようなところがあります。そのような事柄に直面するとき、自分の生きている意味を見失って力を失ってしまう。しかしまさに、そこに、主イエスは命をもたらすお方としてお出でになったのです。
 主イエスは十字架に架かって、死の苦しみ、死ぬという現実をご自分の上に引き受けて経験してくださいました。ところが、三日目に甦られ、そのことによって、この世に対して、身を以て「あなたは確かに死に対して無力だし、死に捕らえられているように見えるような時があるかもしれないけれど、神は、なおそこに命をもたらすことがおできになるのだ」と示してくださっているのです。そして、「それを信じるならば、あなたはたとえ死んでも生きるのだ」とおっしゃるのです。
 私たちは、主イエスを信じたら、自分の死が無くなるわけではありません。私たちの肉体は、いつか終わりの時を迎えます。またそれだけではなく、私たちの願いや能力的な事柄にも限界があって、思った通りにできないという事柄に直面することもあります。そしてそこで、私たちは、小さな死を経験させられるのです。自分自身にがっかりさせられるのです。自分にはもっと力があって、伸びやかに思い通りに過ごせていると思っていたけれど、そうではなかった、これで行き止まりだ、これ以上先には行けないという、そういう死を経験します。そこでは、自分の思っていた自分自身は終わってしまうのです。けれども、「神はなおそこに命を造って、あなたを持ち運ぶことがお出来になる。だから、わたしを信じる者は、たとえ死んでも生きるのだ」とおっしゃるのです。その「死んでも生きる命」というのは、昨日まで続いていた命がそのまま続いていくというものではありません。「あなたは生きていく中で、自分は死すべき者だという事柄を日毎に経験して、それを深刻だと思うかもしれないけれども、あなたはなおそこで生きることができる。そのことを心から信じるなら、あなたは死んでも生きる。生きていてそのことを信じるならば、たとえ肉体の死があるとしても、決して死なない人になるのだ」と、主イエスは言われました。このことは、理屈で理解するというよりは、信じるべきこととして教えられていることです。
 主イエスご自身は十字架上で死なれ三日目に復活するという仕方で、確かに神が命をお造りになることができるのだということを、身を以って私たちに示してくださいました。そして「あなたはそれを信じるか」と問われるのです。
 死んでしまえばそれで終わりだと言ってしまうならば、てんかんの子供を連れてきた父親には、全く救いがないことになります。てんかんという病気であるという事実は決して取り消すことはできません。そういう病気を持った者として生きていかなければなりません。私たちであっても同じでしょう。人には言えなくても抱えている病気があって、なかなか治らないとすれば、私たちはその病気と付き合って生きていかなければなりません。しかし、たとえそういう病気を背負っていて、自分が思っていたようには生きられない、自分の願っていた人生、自分の無限の可能性など無くなって、限界あることを思いながら生きるかもしれない。けれども神は、そこに日ごとに新しい命を備えてくださることがお出来になるのです。そして、死の力にすっかり押さえつけられて自分の人生をつまらなく思う、そういう所から救い出してくださるのです。「様々な困難や障害を抱えているけれど、あなたの命は今日、神さまから与えられている、あなたの命なのだよ。ここで生きて良いのだよ。今あなたが与えられているそのままの姿で、もう一度歩んで良いのだ」と言ってくださる。そうすると「生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない」と主イエスがおっしゃった通りのことが起こるのです。信仰によって生きる人にとって、これは事実として起こっていることです。

 けれども、そのようにこの箇所を考えていきますと、一つの問題があることに気づきます。「わたしを信じる者は、死んでも生きる」とおっしゃる主イエスの言葉を、私たちが心から信じられるだろうかという問題です。主イエスの言葉を聞いて励まされた、その刹那は、私たちは「よし、神が良しとしてくださる人生なのだから、ここからもう一度生きよう」と堅く決心するのです。けれども、そう決心するわたしは、その信仰をずっと持ち続けて歩んでいけるだろうか。そんなに強い信仰を持って生きられるだろうかということが非常に大きな問題として起こって来るのではないでしょうか。日曜日の礼拝において御言葉に励まされ送り出されても、一週間を過ごすうちに、週末頃には力を失っていくのではないでしょうか。どこかで聞かされたことを忘れている。毎日の生活の中で、何かが私たちの信仰を蝕んで、純粋でなくしてしまう力が働くのです。そういう身体を私たちは引きずっているのです。それは特に不信仰だからということではなく、生きている限り、そうなのです。
 もし、自分の経験に基づいて自分の信仰を保って行こうとするならば、それは至難の業です。主イエスは弟子たちから尋ねられました。「どうして、私たちの信仰は、こうも無力なのでしょうか。なぜ私たちは悪霊を追い出せなかったのでしょうか」。この問いに対する主イエスの答えは、「信仰の薄さ」でした。20節に「イエスは言われた。『信仰が薄いからだ。はっきり言っておく。もし、からし種一粒ほどの信仰があれば、この山に向かって、「ここから、あそこに移れ」と命じても、そのとおりになる。あなたがたにできないことは何もない』」とあります。
 「信仰が薄い」という言葉は、私たちの間でも、時々出て来るのではないでしょうか。しかも多くの場合、それは他の人についてではなく、自分について言っていることが多いと思います。「わたしは信仰が薄い」と、つい言ってしまいますが、まるでへり下っているかのように、謙遜に見せているように聞こえます。「わたしは信仰が薄い」とは、どう言うことを言っているのでしょうか。原文では「信仰が小さい」と書いてあります。その小ささはどれくらいか。主イエスは「もし、からし種一粒ほどの信仰があれば、この山に向かって、『ここから、あそこに移れ』と命じても、そのとおりになる。あなたがたにできないことは何もない」と言われました。「からし種」は、最も小さい種のたとえとして言われています。私たちの感覚では「けし粒ほどの」というところでしょうか。そうすると、それは「有るか無いか分からないほど小さい」ということになると思います。
 ある人が、このような薄い信仰のことを電球に喩えて語っています。「信仰は自分自身を暖め周りを照らしてくれる明かりが点るようなこと。ところが弟子たちは、病気の子供の父親から『てんかんの息子を照らしてください。癒してください』と頼まれて、肝心な時に、その電球が点らなかったのだ」と説明しています。どうしてでしょうか。それは簡単なことで、その電球がコンセントに接続していなかったからだと言うのです。つまり、コンセントにプラグが繋がっていなければ、いくら「わたしは電球です」と言ってみても、明かりは点らないのです。弟子たちは弟子たちなりに信仰を持っています。ところが、その信仰にとって一番肝心なものは何かと言うと、電球に喩えるならば、電源に接続していることです。つまり、自分の信仰が、自分の信仰の源に本当にくっついているかどうか、そこが問題なのです。
 弟子たちは、父親が助けを求めて来た時に、もちろん何とかしてあげたいと思うのですが、そこで考えたことは何かと言うと、自分の持っているものを数え始めたのです。「わたしに出来る事は何か。わたしの信仰で何とか対処できないか」と思うのですが、目の前の子供は発作が起こっていなければ至って普通ですから、弟子たちにしてみれば、自分たちの祈りが聞かれているのかどうかも分かりません。分からないまま、取り敢えず元気そうなので「祈りましたから」と言って帰したのです。そこでは、実は自分が本当に主イエスに結ばれているかどうかを問われないままです。けれども、実際には電源にプラグが差し込まれていないので、効き目がないのです。電球があって照らしたかもしれないけれども、点っていない電球があっただけです。

 私たちは「信仰が薄い」とよく言いますが、主イエスがおっしゃるように、信仰というのは大きさの問題ではないのです。点っていれば、けし粒ほどでも、からし種ほどでも、とても大きな力がありますが、その源に繋がっていなければ輝くことはできないのです。ですから、私たちが「信仰が薄い、小さい」という時には考えなければならないことがあると思います。それは、そう言っている時に、「このわたしは一体、何に繋がっているのだろうか」ということです。「わたしの信仰は小さいです。薄いです。力がありません」という経験を私たちはこれまで数限りなくしてきましたし、これからもするかもしれません。けれども、なぜ力が無くなるのか、それは私たちが自分たちの信仰の源から離れてしまうからです。信仰を自分の持ち物みたいに考えて、自分の力の一部のように考えてしまう時には、私たちの信仰は、自分の有限な力の及ぶ範囲でしか働きませんから、そうすると私たちは自分が無力だという現実に出会わざるを得ないのです。自分がどんなに願っても一秒だって命を伸ばすことは出来ないし、1センチの身長を伸ばすこともできません。そういう自分自身の限界の中に留まらざるを得ないのです。けれども主イエスは言われます。「貧しく無力なあなただけれど、わたしがあなたと一緒に生きてあげるのだよ。あなたたちと一緒に生きるために、わたしは、あなたたちに混じってヨハネから洗礼を受けたのだよ。だから、あなたが洗礼を受けたのは、わたしと生きるためなのだよ」とおっしゃるのです。
 洗礼を受けたら、洗礼によって魔法の力が私たちに宿るわけではありません。洗礼を受ける前と後では、自分自身としてはさほど変わりはありません。ただ違うことは、「主イエスが確かにこのわたしと一緒に歩んでいてくださる」、そのことが事実として私たちの人生の中に刻まれている、それが大きな違いです。

 どういうわけか私たちは、信仰は心の問題だと考える癖があります。信仰は自分の心の持ちようだと、つい思ってしまうので、そうすると自分の在り方が問題になるのです。自分が信仰的な思いを持っていれば神に繋がることができるのだと思っていますが、それは違うのです。私たちがどうして神に繋がるのかは、私たちの心の有り様ではなく、「主イエスが私たちと共に歩んでくださっている。主イエスに私たちが結びつけられている。だから私たちは信仰者として生きることが出来る」のです。
 私たちは、何とか信仰深く生きたいと願いますが、聖書は違うことを教えています。「主イエスの方から不信心な者を訪れてくださる。そして、神さまに結びつけて、神さまの力をその人に働かせてくださる。人の心が問題なのではなく、主イエスがその人と共にあることこそが大事なことなのだ」と語ります。ローマの信徒への手紙4章5節に「しかし、不信心な者を義とされる方を信じる人は、働きがなくても、その信仰が義と認められます」とあります。とても不思議な言葉ですが、今日聴いている箇所で、「からし種ほどの信仰、それさえあれば」と主イエスがおっしゃっていることを理解するために、大事な急所を言い表している決定的な言葉なのです。私たちは、自在に信仰のプラグを入れたり抜いたり出来るわけではありません。弟子たちは、気がついてみると、プラグがコンセントから抜けていた状態でした。
 明かりがどうしても必要な場面に、つい自分自身で何かをしようとしてしまうことがあります。手当たり次第に聖書を開いて、今のわたしにピンとくるような言葉を探してみたり、神を強く思い出そうとする。けれども、そうしたところで私たちは「神のものである自分」ということを実感できるかというと、なかなかできないだろうと思います。懸命に聖書を開いて神を求めているというところに留まるでしょう。人間が自由自在に神と繋がることはできないのです。仮に、もしそんなことが出来たのであれば、主イエスがそもそもこの世においでになって十字架にかかる必要もありませんでした。
 もし私たちがいつも聖書をめくり、聖書の言葉を頼りに自分の力で神に繋がることが出来るのであれば、主イエスの時代のユダヤ人にも出来たはずです。ファリサイ派の人たちは、いつでも聖書の勉強をしていたのですから、誰よりも簡単に出来たに違いありません。しかし、そういう在り方でファリサイ派の人たちが神に繋がっていたかというと、繋がることが出来なかったからこそ、主イエスは「あなたたちは、口では色々言うけれど、実際には神から離れているではないか」と、彼らを痛烈に批判なさったのです。

 私たちは、自分の力、記憶、思いの強さで神に繋がれるかと言えば、繋がれないのです。けれども、そういう私たちがなお神と繋がるように、神が望んでくださっている、だから十字架の出来事が起こったのです。「不信心な者」それは、私たちです。その私たちを「義」としてくださる、そのために主イエスは十字架に架かってくださいました。このことを信じるならば、働きがなくても、その信仰は義と認められるのです。「すっかり神との繋がりが切れてしまっている私たちの罪の姿の中にまで、主イエスが下って来てくださって、あなたと共にいるよと言って洗礼を受けてくださった。だからあなたは主イエスに結ばれて神のものとして生きることができるようにされているのだ」と教えられています。
 私たちは不信心な者で、自分からは神の方に向くことが出来ないし、どちらに向けば神の方に立てるのかも分からない。たとえ教会に来ていても、自分の心だけでは、神の前に立って礼拝することさえできない。そういうわたしだけれど、しかし、「主イエスがこの群れの中に共にいてくださるから、わたしは神のものとされ、本当の信仰をここで与えられて生きていくようにされる」のです。ですから、そう信じる人はどう祈るのでしょうか。「不信心なわたしをどうかお救いください。どうかわたしを憐れんでください」という祈りを捧げるようになるのです。ちょうどこの父親が主イエスの前にやって来て「主よ、どうか、この子を憐れんでください」と求めているように、です。

 私たちは、自分でどうすれば神の前に立つのか知ることが出来ない、惨めな貧しいところを持っている、そういう人間です。しかしだからこそ、私たちは、神に祈るのです。「神さま、わたしはどうすればあなたの前に立つことができるのか知りません。どうやってあなたと繋がったら良いのか知りません。けれども、あなたの方から、この不信心な者を義とするために、あなたと結びつけるために、独り子を送ってくださったのだと聞きました。わたしはそのことを信じます。どうか、わたしを憐れんでください。あなたから離れているわたしを憐れんで、あなたと共にある者としてください。わたしと同じように、どうやってあなたを礼拝したら良いか分からない兄弟姉妹のためにも祈ります。不信心な者を義とする方、主イエスを通して、一人一人にあなたが出会うようにしてください。どうかこの一年、そのようにしてあなたの御言葉を聞かされ、あなたの力と慰めをいただいて生きることができるようにしてください」と。父親は、このような思いを持って主イエスの前にやって来て、そして子供は癒されるということが起こりました。
 私たちは、自分の生身を引きずって生きている限り、どうしても不信仰なところがこの身に宿っているのです。御言葉に慰められ励まされて、その刹那には神のものとされているという確信を持ったとしても、しかしまた、自分の肉体から生えてくる様々な雑草の根に侵されて、神の前から離れていってしまうような惨めさを持っています。けれども、そういう私たちを義とし、神と結びつけるために、主イエスが来てくださいました。そして「わたしを信じるか」と問われています。
 私たちは、この主イエスの言葉を聞かされながら、「信じます。不信仰なわたしをお救いください」と祈り願いながら、ここから歩み出したいと願います。

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