聖書のみことば
2018年9月
  9月9日 9月16日 9月23日 9月30日  
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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9月23日主日礼拝音声

 心に記す
2018年9月第4主日礼拝 9月23日 
 
小島章弘牧師 
聖書/エレミヤ書 第31章31〜34節、ローマの信徒への手紙 第2章26〜29節

エレミヤ書 31章<31節>見よ、わたしがイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る、と主は言われる。<32節>この契約は、かつてわたしが彼らの先祖の手を取ってエジプトの地から導き出したときに結んだものではない。わたしが彼らの主人であったにもかかわらず、彼らはこの契約を破った、と主は言われる<33節>しかし、来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。<34節>そのとき、人々は隣人どうし、兄弟どうし、「主を知れ」と言って教えることはない。彼らはすべて、小さい者も大きい者もわたしを知るからである、と主は言われる。わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない。
ローマの信徒への手紙  2章<26節>だから、割礼を受けていない者が、律法の要求を実行すれば、割礼を受けていなくても、受けた者と見なされるのではないですか。<27節>そして、体に割礼を受けていなくても律法を守る者が、あなたを裁くでしょう。あなたは律法の文字を所有し、割礼を受けていながら、律法を破っているのですから。<28節>外見上のユダヤ人がユダヤ人ではなく、また、肉に施された外見上の割礼が割礼ではありません。<29節>内面がユダヤ人である者こそユダヤ人であり、文字ではなく“霊”によって心に施された割礼こそ割礼なのです。その誉れは人からではなく、神から来るのです。

 エレミヤ書を「聖書に親しむお母さんの集い」で聞いてまいりました。今年度で終えることになっています。約4年にわたって聞いてまいりました。エレミヤ書を読むにしたがって、その魅力にひかれていきました。エレミヤの預言が、この時代に生きる者にとって指針となるような言葉に促され、何とか灯を見出せればと願いながら、読み進んでいます。前半は北先生、後半は宍戸先生が、いつも一緒にいてくださり、足りないところを補って下さって、又参加してくださっている姉妹方に励まされて通読を完了する見通しが立ちました。この集いを通して、何よりも私自身が大きな恵みをいただくことができたように思います。御言葉の深さと広さ、分かち合うことの喜びを知りました。
 エレミヤ書の預言の中心は、言うまでもなく、エレミヤが若干20歳の時に預言者として神さまから召命を受けたときに示された「抜き、壊し、滅ぼし、破壊し、あるいは建て、植えるために」との言葉でした。この6つの動詞の中に神さまの願いがあり、それを胸に生涯(40年間)預言活動に臨んでいきました。その中間のところに、エレミヤは神の言葉として力を入れて語っています。
 それが慰めの書(30~31章)と言われるものです。

 そこで、本日はエレミヤ書の頂点ともいえる「新しい契約」が書かれている31章に聞きます。ここからは後半に入りますが、同時に、ここから神の言葉が「破壊から希望に、懲らしめから赦し」に変わっていきます。つまり、「抜き、壊し、破壊」から「建て、植える」ことへと変わります。
 先ず、もう一度与えられた御言葉に聞きます。エレミヤ書31章31~33節です。「見よ、わたしがイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る、と主は言われる。この契約は、かつてわたしが彼らの先祖の手を取ってエジプトの地から導き出したときに結んだものではない。わたしが彼らの主人であったにもかかわらず、彼らはこの契約を破った、と主は言われる。しかし、来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる」とあります。
 神さまがモーセを通してイスラエルの民に与えられた「十戒」は、石の板に刻まれました。約60年ぐらい前に映画「十戒」をご覧になった方がおられるかもしれませんが、強烈な映像で、その有様を見たことを忘れません。炎のような火が飛んできて石に文字が刻まれていきました。それを守ることによって、神さまの祝福をいただくことに喜びが与えられていたのです。
 しかし、時代が進むにしたがって、十戒をないがしろにして偶像礼拝に走ってしまったり、異教の神々を拝んだりしていました。エレミヤが召命を受けたのがBC626年でしたが、その数年後ユダの王ヨシアによって宗教改革がなされました。残念なことにヨシアは道半ばにして戦死してしまいました。エレミヤはそれを受け継ぐような形になりますが、偶像礼拝の空しさを語り続けます。10章5節以下には、エレミヤらしい例を挙げて言います。偶像を「きゅうり畑のかかし」のようだというのです。5節「きゅうり畑のかかしのようで、口も利けず 歩けないので、運ばれて行く。そのようなものを恐れるな。彼らは災いをくだすことも 幸いをもたらすこともできない」と。エレミヤは、徹底的に偶像礼拝を非難しています。

 そこで、先ほど聞きました御言葉に戻ります。「心に記す契約」とは何を意味しているでしょうか。「心に記す」とは、何を意味しているのでしょうか。
 学問的には、「心」はいまだに確定的な定義がなされていません。心理学でも、精神医学、他の分野でも定義がなされていないのです。にもかかわらず紀元前6世紀ごろに、エレミヤが「心」という言葉を使っていることに驚きを感じます。エレミヤは「耕作地」を「心」として捉えていたようです。
心という言葉は旧約聖書にはたくさん出てきます。ですからわたしたちは、それが当たり前のように思っています。しかし、これはかなり石の板の十戒のときのような強烈さではなく、心にしみわたるものではないでしょうか。別の意味で注意深く聞かなければならないと思います。そこで少しこの言葉をめぐって掘り下げてみたいと思います。
 エレミヤは、4章ですでにこのことについて述べています。4章3節以下です。「まことに、主はユダの人、エルサレムの人に 向かって、こう言われる。『あなたたちの耕作地を開拓せよ。茨の中に種を蒔くな。ユダの人、エルサレムに住む人々よ 割礼を受けて主のものとなり あなたたちの心の包皮を取り去れ。さもなければ、あなたたちの悪行のゆえに わたしの怒りは火のように発して燃え広がり 消す者はないであろう』」とあります。心の包皮を取り去れということは、新しいメッセージだと言ってよいでしょう。
 エレミヤは、その預言活動の初めから、「新しい、心の包皮を取り去れ」と語っていることがわかります。それが31章33節で明確に「心に契約を記す」と書いています。これは神さまの前に罪を告白して悔い改めることを促しているのです。単なる文字だけの契約ではなく、心の包皮を切り落とすことを促しているのです。
 わたしたちの心を見抜いておられる方は、心の中にある罪を悔い改めると、単に外形に救いの印を受けるのではなく「心の皮を切り落とす」ことを、エレミヤは促していると言ってよいでしょう。
 エレミヤが、「耕作地」という言葉を使っていますが、それはイエスさまの4つの地に種をまいた譬え話を思い起こすことができます。茨の中や石地に種をまいても、その種は根を張ることができず無駄になってしまうのですが、柔らかい地に御言葉をいただいて、祈りつつ神さまの言葉に自分を向けて生きることが求められております。「耕作地を開拓する」ということは、心を柔らかくすること、かたくなな石のような心ではなく、いつも御言葉を聞き、受け取ることができるようにしておくことを語っています。御言葉に聞き続けることの大切さは言うまでもありません。そのことによってしか、耕作地を耕すことはできません。御言葉を聞くことこそ、心を豊かにするのです。

 そこでもう一つ、今日いただいた御言葉に聞いてまいります。パウロのローマの信徒への手紙2章26~29節です。「だから、割礼を受けていない者が、律法の要求を実行すれば、割礼を受けていなくても、受けた者と見なされるのではないですか。そして、体に割礼を受けていなくても律法を守る者が、あなたを裁くでしょう。あなたは律法の文字を所有し、割礼を受けていながら、律法を破っているのですから。外見上のユダヤ人がユダヤ人ではなく、また、肉に施された外見上の割礼が割礼ではありません。内面がユダヤ人である者こそユダヤ人であり、文字ではなく“霊”によって心に施された割礼こそ割礼なのです。その誉れは人からではなく、神から来るのです」とあります。それは、聖霊の働きによって、神さまからのものでなければならないと語るのです。
 「新しい契約を心に記す」とか、「心の割礼」ということは、自分自身に目を向けることです。すると、外見上の見栄とか誇りとか、自力で生きることが砕かれ、切り落とされ、イエスさまの前に自分の闇、罪、心の汚れが露わになって、心の包皮が切り落とされて、自分の無知や愚かさが露わになるのです。「なんというみじめな人間なのだろう」と罪の中に落とされるのです。そして、その時に、十字架のイエスさまが手を差し出していてくださることを知るのです。自分の惨めさが露わになった時に、初めて救いの手が目の前にあることに気づかされます。自分の誇りの中に生きているとき、自分の力で生きている時には目に入らなかったイエスさまの手が差し出されていることに目が開かれます。イエスさまが、わたしのために、御自身で痛みを担っていてくださることにハッとさせられるのです。それがまさにパウロが言う霊(神の力)によって心に施された割礼ということです。
 「俺が俺が、わたしがわたしが」と、自分にしがみついていることから解放され、イエスさまの十字架の贖いに委ねていることに喜びと感謝をもって生きることができるのです。罪(強気の罪=自分を人生の主人公とする強気、弱気の罪=神も自分も選ばない弱気の罪)、汚れを持って生きている者にも、無償で、値なしで、「十字架の血によって、わたしのためにイエスさまが死んでくださった」という贖いに与ることができるのだと知ることができるのです。

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