聖書のみことば
2019年5月
  5月5日 5月12日 5月19日 5月26日  
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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5月26日主日礼拝音声

 義と救い
2019年5月第4主日礼拝 5月26日 
 
宍戸俊介牧師(文責/聴者)
聖書/ローマの信徒への手紙 第10章1〜21節

<1節>兄弟たち、わたしは彼らが救われることを心から願い、彼らのために神に祈っています。<2節>わたしは彼らが熱心に神に仕えていることを証ししますが、この熱心さは、正しい認識に基づくものではありません。<3節>なぜなら、神の義を知らず、自分の義を求めようとして、神の義に従わなかったからです。<4節>キリストは律法の目標であります、信じる者すべてに義をもたらすために。<5節>モーセは、律法による義について、「掟を守る人は掟によって生きる」と記しています。<6節>しかし、信仰による義については、こう述べられています。「心の中で『だれが天に上るか』と言ってはならない。」これは、キリストを引き降ろすことにほかなりません。<7節>また、「『だれが底なしの淵に下るか』と言ってもならない。」これは、キリストを死者の中から引き上げることになります。<8節>では、何と言われているのだろうか。「御言葉はあなたの近くにあり、あなたの口、あなたの心にある。」これは、わたしたちが宣べ伝えている信仰の言葉なのです。<9節>口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。<10節>実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです。<11節>聖書にも、「主を信じる者は、だれも失望することがない」と書いてあります。<12節>ユダヤ人とギリシア人の区別はなく、すべての人に同じ主がおられ、御自分を呼び求めるすべての人を豊かにお恵みになるからです。<13節>「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」のです。<14節>ところで、信じたことのない方を、どうして呼び求められよう。聞いたことのない方を、どうして信じられよう。また、宣べ伝える人がなければ、どうして聞くことができよう。<15節>遣わされないで、どうして宣べ伝えることができよう。「良い知らせを伝える者の足は、なんと美しいことか」と書いてあるとおりです。<16節>しかし、すべての人が福音に従ったのではありません。イザヤは、「主よ、だれがわたしたちから聞いたことを信じましたか」と言っています。<17節>実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。<18節>それでは、尋ねよう。彼らは聞いたことがなかったのだろうか。もちろん聞いたのです。「その声は全地に響き渡り、その言葉は世界の果てにまで及ぶ」のです。<19節>それでは、尋ねよう。イスラエルは分からなかったのだろうか。このことについては、まずモーセが、「わたしは、わたしの民でない者のことで あなたがたにねたみを起こさせ、愚かな民のことであなたがたを怒らせよう」と言っています。<20節>イザヤも大胆に、「わたしは、わたしを探さなかった者たちに見いだされ、わたしを尋ねなかった者たちに自分を現した」と言っています。<21節>しかし、イスラエルについては、「わたしは、不従順で反抗する民に、一日中手を差し伸べた」と言っています。

 ただいま、ローマの信徒への手紙10章の全体をご一緒にお聞きしました。この箇所では、使徒パウロが、パウロにとっての同胞であるユダヤ人の救いということをしきりと気にしています。1節に「兄弟たち、わたしは彼らが救われることを心から願い、彼らのために神に祈っています」とあります。
 こう語っているパウロという人は、生涯のうち3度の大掛かりな伝道旅行を行なって当時の世界を行き巡り、多くの人たちに福音を伝えた伝道者です。その働きは大変目覚しかったのですが、しかしそういうパウロにはいつも心に掛かっている一つの悲しみの事柄がありました。それは、パウロにとって本来なら最も近しい間柄であるはずの人たち、ユダヤ人たちをめぐっての悲しみでした。パウロの語る言葉は、元々異邦人だった人たち、元々神と関わりなく生きてきた人たちには、比較的素直に受け入れてもらい、主イエス・キリストの御業を信じて洗礼を受け、教会の群れに繋がるということが各地で起こったのですが、パウロにとって最も身近であるはずのユダヤ人はなかなかパウロの言葉に耳を貸そうとしませんでした。パウロは同胞であるユダヤ人たちがなかなか神の救いの出来事を受け止めようとしないことを深く悲しんでいました。
 今日は10章を聞いていますが、これに先立つ9章の始めでは、パウロがユダヤ人を思ってすっかり思い詰めてしまっています。2節3節に「わたしには深い悲しみがあり、わたしの心には絶え間ない痛みがあります。わたし自身、兄弟たち、つまり肉による同胞のためならば、キリストから離され、神から見捨てられた者となってもよいとさえ思っています」とあります。パウロはしばしば「異邦人の使徒」と呼ばれて、異邦人伝道のためにその生涯を捧げた人物だと目されていますが、しかしパウロ自身の想いの中には、いつも自分に近しい人たちであるユダヤ人への想いがあったということが分かります。そして、今日の箇所では、肉による同胞であるユダヤ人のことを想って「彼らが救われることを心から願い、彼らのために神に祈っています」と述べています。同胞の救いのために懸命に祈るパウロの姿があります。そして10章全体を通して、パウロがユダヤ人たちの救いを心に懸けていることが分かります。

 パウロがこのように同胞たちの救いということを真剣に受け止め祈り続けていることを聞きながら、しかし、私たちにとってみますと、このパウロの祈りは少なからず違和感を覚えさせるものかもしれないと思います。もちろん、私たちも誰かの救いために懸命に祈るということはあるかもしれません。しかしそれにしても、私たちが普段捧げている祈りはどのようなものかと振り返ると、ここでパウロが祈っている祈りとは少し趣が違うのではないでしょうか。
 私たちが他者を覚えて祈るとき、例えば病気の兄弟姉妹を覚えて「癒されますように」と祈ることはよくあることでしょう。困難や不安に直面している隣人のことを覚える時には「困難、不安が取り除かれますように」と祈るかもしれません。あるいはテレビを観ていて、大きな事故や災害のニュースを知った時には、「辛く苦しい状況にある人たちが慰められ明るさを取り戻せますように」と祈るかもしれません。私たちは、誰か他の人について祈るとき、その人の辛かったり悲しかったり苦しかったりする事柄に変わって「その人に幸せが訪れますように」という祈りならば、割合からして多く捧げているのではないかと思います。けれども、パウロがここで祈っているように、「どうかこの人が救われますように」と祈ることは、私たちは頻繁にはしないように思います。少なくとも、私たちが自分自身や誰かの幸福や慰めを祈るほどには、祈っていないように思います。
 私たちが誰かのために「救いを来らせ給え」とあまり祈らないのだとすると、もしかすると、その理由の一つには、私たちがそもそも自分自身が救われていること、自分自身の救いということについて、日頃あまり考えることがないということが関係しているのかもしれません。今日の箇所で使徒パウロは、それこそ狂おしいほどに「救いを来らせてください。あの人たちの上に救いをもたらしてください」と懸命に祈っています。パウロがそれほどまでに懸命に祈っているのであれば、やはり、ここで祈られている救いの言葉というのは、誰にとっても是非とも必要なものなのだろうと思います。
 私たちが自分にとって近しい家族や友人隣人たちのために、毎日真剣に救いを祈り願うということになっていないのは、もしかすると私たちは、自分自身の救いということに鈍感で、あまりよく分かっていないからかもしれません。では、パウロはどうしてこのように懸命に同胞たちが救われることを心から願ったのでしょうか。「救ってください」と祈ることで、パウロがどのようなことを考えていたのか、今日はここから少し聞き取ってみたいと思います。

 2節でパウロは「わたしは彼らが熱心に神に仕えていることを証ししますが、この熱心さは、正しい認識に基づくものではありません」と言っています。パウロは、同胞であるユダヤ人が本当に神に熱心にお仕えして毎日生活している、そのことは証しできると言っています。つまり、神に向かおうとするユダヤ人たちの真剣さ真面目さは確かにあると認めているのです。けれども、その一面でパウロは、「ユダヤ人たちの熱心さは確かに見上げたものではあるが、しかし、言うなればそれは的外れなところに向かっている熱心さであって、その努力によっては救いは訪れない」と思っているのです。ユダヤ人たちは懸命に神に向かっているけれども、そのあり方では救われない。ですからパウロは、彼らに代わって「どうか、この人たちを救ってください」と祈っているのです。
 ユダヤ人たちの真剣さ、努力はどうして的外れだと言われるのでしょうか。それは、ユダヤ人たちが自分自身のあり方、自分自身の行いによって神の前に正しいと認めてもらおうとしている、そのために一生懸命になっているので、それでは神に喜んでもらえないのだと、パウロは思っているのです。神に本当に喜んでいただく、神を喜ばせる正しいあり方というのは、人が正しい生活を立派に行ってみせるというようなことではないと、パウロは思っています。ユダヤ人たちは神の前に正しく生きようと願って、旧約聖書をそれこそ熱心に調べていました。そして、そこに書いてある事柄を一つ一つ数え上げて、自分がそれを行って生きようとする、そうすることで神の前に正しくあろうとしました。考え方として、それで良いのではないかと、私たちも思ったりするかもしれません。私たちであっても聖書を真剣に読んで、そこに語られていることを何とか聞き取ろうとします。そしてそのように生きたいと思っているように思います。ユダヤ人たちもそうなのです。神の前に正しい生き方をしたい、そのためには自分で聖書を読んで、そこに語られている事柄を心に留めて、それに忠実に生きることが正しいという情熱、願いは分かります。けれどもそれは、自分たちが「これが正しい」と聖書を読んだ、その正しさを神の前に振りかざして、神に「あなたはそれでいいんだよ」と認めさせようとする、そういうことにも繋がるかもしれません。

 人間が聖書を開いて聞き取る正しさ、あるいは、人間が心に思う正しさというのは、本当にはどれほど正しいのでしょうか。そもそも人間が神の前に正しくいられなくなったのは、どこで起こったのかというと、創世記の始めのところで、アダムとエバが、蛇に唆されたということはありますが、神が「あの木からは取って食べてはいけない」とおっしゃった、その木の実を取って食べてしまったところから始まっています。神は「あの木からは取って食べてはいけない」と親切に教えてくださいました。ところがアダムとエバ、人間の側では、その木の実を自分の目で見て、「これは食べても大丈夫だろう」と勝手に判断して食べてしまったところから、神と人間の亀裂が始まっているのです。創世記3章4節から6節に「蛇は女に言った。『決して死ぬことはない。それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ。』女が見ると、その木はいかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるように唆していた。女は実を取って食べ、一緒にいた男にも渡したので、彼も食べた」とあります。神の言葉に従うよりも自分の判断を優先して、まるで人間が神であるかのように善悪を自分で決めるようになった、そこに神の御心との齟齬が生じ亀裂が生じてしまったのだと、聖書は告げています。

 私たちには確かに、そういうところがあるだろうと思います。私たちの目の前には善悪を知る木など生えていませんが、私たちは誰でも自分で善悪は判ると思っているところがあるのではないでしょうか。自分が正しいと思うことは、自分で決めているのです。しかしそれが神の御心なのかどうかという点については、あまり分からないのではないでしょうか。私たちがいくら聖書を読んでも、自分でこれが正しいと決めている間、自分の義を振りかざしている間は、どうしても神にその正しさを認めてもらえるはずがない。パウロはそう言っているのです。人間が情熱的に聖書を読む、そして聖書の言葉通りに行って生きようとする、その熱意は見上げたものだけれど、しかしそれは認識や理解としては誤っているとパウロは言っています。その熱心さは正しい認識によるものではないと言っています。本当に神と仲直りしたいのであれば、本当に神に喜んでもらい、神に正しさを認めてもらおうとするならば、私たちが「これが正しいのだ」と神の前に主張するのではなく、神の側から人間を何とかご自身のもとに立ち返らそうとしている、そのやり方に従う他ないのではないでしょうか。
 神が私たちのために行ってくださったなさりようということを、私たちが受け入れることで、私たちは再び神との交わりの中に生きるようにされていきます。そして、それこそが救いなのです。「わたしは過ちをおかし、本当に神の御心に適わない判断をしてしまった。いやこれからもするかもしれない。けれども神さまはそんなわたしを深く憐れんで、わたしのために御業をなさってくださっている」、それを信じて受け入れることです。「神はわたしを愛してくださっている。どんなことがあっても、たとえわたしが失敗するとしても、それでもなお神がわたしを受け入れて、もう一度生きるようにとおっしゃってくださっている」、そのことがパウロが懸命に伝えたいと思っている救いなのです。

 世の中には、「救い」など生きている人間に大した事柄ではないとうそぶく人がいるかもしれません。あるいは「救い」よりも、人生が幸せになること、この世の幸福の方がよっぽど重要だと思っている人は大勢いると思います。けれども、そういう人は実は、神の救いがよく分からないために必要ないと言っているのかもしれません。神が深くわたしを愛して、憐れみ慈しみ、どのような時にも生きるようにとおっしゃってくださっている。神がわたしの後ろ盾になってくださっているし、わたしの人生の裏打ちになってくださっている。その頼もしさを知るならば、「その方がいい」と思うに違いありません。ところがそういうことを知らないので、「人生はどこまで行っても結局は自分が一生懸命生きていく他ない。そしていつかやがてこの人生は果てるのだ。人生とはそういうものだ」としか思っていない人にとっては、「救い」ということはさほど重要ではないのです。
 けれども、神から見て人間がそのように孤独に生きて、生涯をさまよい歩くように歩き続け、馬車馬のように走り続けて、その最後にいつか果ててしまう、それが本当に良いことだとおっしゃるのかというと、神はそうはおっしゃらないのです。人間の努力によって人間の正しさを認めてもらおうという生き方は、神に喜ばれないし、神の前に良しとされないのです。私たちが人間の義を求め続ける限り、自分の正しさを追求し続ける限り、私たちは決して神に受け止められ愛されているという平安を得ることはできない。神に良しとして受け入れられることもないのです。

 そうであるならば、神が私たちのためになさってくださっている御業、神の前での正しいあり方、神の義とはどういうものなのでしょうか。それは、「神の側から私たちの所にまで、言うならば一本の橋が渡されていること、神が私たちと交わりを持とうとして主イエスが来てくださったことを信じる」、そういう仕方で私たちは、神に喜ばれる正しいあり方を取ることができるようになるのです。「十字架に架かってくださり、復活して今も生きておられる主イエスがおられる」と、私たちは教会にある程度通えばそのことをよく聞くと思います。「主イエスがまさに私たちのためにこの地上に生まれてくださった。私たちのために地上を歩んでくださった。そして十字架に架かり復活して今も私たちと共に歩んでくださっている」、そのことが真実だと信じて、「主イエスは、このわたしのために地上に来てくださった。十字架に架かってくださったのもわたしのためだ」と心から信じて、その信仰を言い表して生活するときに、私たちは神から喜ばれ、神に受け入れられ、救われた者となるのです。9節10節に「口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです」とあります。
 そしてそれに続けて11節に「聖書にも、『主を信じる者は、だれも失望することがない』と書いてあります」とあります。パウロはこう言って、これが旧約聖書のどこかに書いてあると言っていますが、元々これは旧約聖書イザヤ書の言葉です。パウロはこの言葉が主イエスを指し示す言葉だと受け取りました。そして、これは本当に大事なことだと思って、この手紙の中で二度引用しています。11節は二度目の引用ですが、1回目は9章33節です。「『見よ、わたしはシオンに、つまずきの石、妨げの岩を置く。これを信じる者は、失望することがない』と書いてあるとおりです」。「これを信じる者は、失望することがない」というところが同じです。
 「シオン」はエルサレムの都が建てられた山のことです。そのシオンの山の上、ゴルゴタの丘に十字架が立てられました。救い主である方が十字架に架かってくださり、異邦人やユダヤ人の手にかかって処刑されてしまった。ユダヤ人からすれば、こんなことは理屈に合わないことです。神から送られた救い主を人間が処刑できるはずがないとユダヤ人は考えますから、処刑することができたとすれば、あれは救い主であるはずはないと思うのです。人間の感覚から言えば、神が遣わしてくださった救い主を人間が殺してしまったら、どうしてそこに救いがあるのかと思います。
 けれども、神は全く違いことをお考えになりました。「罪が全くない神の独り子を十字架に架ける。このことで全人類の、すべての人の罪の身代わりとする」と。主イエスの苦しみの死をもって私たち人間の罪の償いとしてくださって、私たちの罪をそこで精算してくださる。十字架があるので、人間の罪は帳消しにされて、「あの十字架はわたしのためのものだったのだ」と信じる人は、「わたしの罪は帳消しにされ、神がわたしを受け入れてくださった」と信じることができるのです。神の側は、独り子を十字架に架けるという仕方で、人間が神の御心に背き勝手なことをしてしまう、その罪を、それでも赦して、そこでもう一度生きてよいと帳尻を合わせて精算してくださっているのです。その神のなさりようが「本当にわたしのために起こった出来事だ」と口で言い表して生きるとき、私たちは本当に救われて、神から深く愛され慈しまれ、罪赦された者としての人生を生き始めるようになるのです。

 パウロは、何としても、自分の同胞であるユダヤ人たちが救われてほしいと願っていました。そしてパウロ自身は、神の御業、十字架と復活の御業を伝える務めを、自分の生涯の務めと定めたのです。ユダヤ人たちはなかなかパウロの言葉を聞いてくれませんから、途中から異邦人伝道に向かうと宣言し、神を知らない人たちのところへ行って神を伝え、それを信じる人が起こされ、あちこちに教会が建てられるということが起こりました。このパウロの伝道から始まって、主イエスの十字架によって罪を精算されたと宣べ伝える教会の働きは、今や全世界に広まっています。およそ2000年を経て、「主イエスが私たちのために地上に現れてくださり、私たちのために十字架に架かり、復活しておられる」と信じて生活する教会の群れがこの日本の地にも建てられ、私たちはそこに招かれています。これは本当に嬉しい感謝なことと言わなくてはなりません。

 私たちは毎週教会に集まって、聖書の言葉を聞き、説き明かしも耳にしますが、これは古い昔の話を聞いているのではないのです。使徒パウロが心を込めて同胞や異邦人たちに語りかけたのと同じように、今日私たちのもとでも、神がなさってくださった救いの御業が語りかけられています。
 そうであるならば、私たちは、自分の家族や隣人、親しい人について、その人の人生が穏やかであれ平安であれ、幸せであれと幸福を祈る以上に、その一人ひとりの救いをこそ、祈り願うべきではないかと思います。どんなに困難に見舞われているとしても、その中でどんなに心細く自分がちっぽけでしかないと思うとしても、そういうわたしをそこで神がご存知でいてくださる、これ以上に大きな出来事はないのです。本当に自分は小さな者に過ぎないと思う時にも、このわたしを神が確かにご存知で、わたしに「生きるのだよ」と言って将来を備えてくださっている。私たちはそういう人生を生きるように招かれているのです。生まれたばかりの小さな幼子から、歳を重ねて死の床に横たわっているような人に至るまで、私たちは一人一人がどんな状況、どんな時であっても、神に覚えられ、「あなたはわたしのものだ」と呼びかけられているのです。
 私たちは、そういう神に依り頼んで、「自分が憩うべき場所が与えられ、人生の土台を与えられて生きることができる」、それが私たちの救いです。そして、そういう救いを得て生きる時には、私たちの人生は、たとえ困難な事情のもとに置かれていても、そこで平安であり、どんなに明るく朗らかなものになるかを思います。

 パウロが心を込めて肉による同胞の救いを祈り願っていたように、私たちも、自分の近しい人たちの救いを切に祈り求めながら、その祈りを絶やさず祈る者とされたいと願います。

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