聖書のみことば
2025年12月
  12月7日 12月14日 12月21日 12月28日  
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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12月7日主日礼拝音声

 恵みと真理
2025年12月第1主日礼拝 12月7日 
 
宍戸俊介牧師(文責/聴者)

聖書/ヨハネによる福音書 第1章6〜18節

<6節>神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。<7節>彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。<8節>彼は光ではなく、光について証しをするために来た。<9節>その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。<10節>言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。<11節>言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。<12節>しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。<13節>この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。<14節>言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。<15節>ヨハネは、この方について証しをし、声を張り上げて言った。「『わたしの後から来られる方は、わたしより優れている。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。」<16節>わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。<17節>律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである。<18節>いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。

 ただ今、ヨハネによる福音書1章6節から18節までをご一緒にお聞きしました。
 その終わりの17節に「律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである」とあります。ヨハネによる福音書で、最初に「イエス・キリスト」という名前が現れるところです。「イエス・キリスト」という名前は、名字と名前と思っている人もいますが、実際には最も短い信仰告白の言葉です。「キリスト」とはヘブライ語の「メシア」のことで、「救い主」を指す言葉だからです。即ちイエス・キリストとは、「イエスさまが救い主メシアです」と言い表す呼び名であって、主イエスに対する信仰を言い表している言葉です。
 この福音書は、どうして書かれたのでしょうか。この福音者を著したヨハネ自身が、その理由を20章31節で語っていました。そこには「これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである」とあります。ヨハネによる福音書は元々は20章で終わっていて、最後の21章は後から加えられたものだと言われています。すると、元々20章で終わっていた最初のヨハネによる福音書は、その結びのところで、「あなたがたは、主イエスを神の子メシアであると信じなさい。そして、この主イエスにより命を受けて生きる者になりなさい」という招きの言葉で結ばれていたということになります。「主イエスのことを神の子メシアであると信じる」ということ、そして「信じることで、この方の名による新しい命を生きるようになる」こと、その2つのことが、当時既にあった3つの福音書に加えて4番目の福音書を著した理由だとあります。この福音書はこれを聞く人一人ひとりに、「新しい命を生きるようになって欲しい。主イエスのことを神の子メシアだと信じることでそうなって欲しい」という、切なる願いを訴えかけている、そういう福音書なのです。

 この福音書の結びがそうなっていると知った上で、先程の17節の言葉を聞くと、ここに記されているイエス・キリストという言葉に、ヨハネがどんなに真剣で重大な思いを込めて語っているかということが感じられるのではないでしょうか。ヨハネは、「救い主メシアである主イエスを通して恵みと真理が現れた」と言います。「律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである」。「恵みと真理」とは何でしょうか。これは人間が頭の中で考えたり、心のうちに思いついたりするものではありません。14節に「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた」と述べられています。「恵みと真理」は、ヨハネが深く目を閉じ眼想した涯にたどり着いた何らかの境地というものではありません。それは「現れた」と言っています。即ち「主イエス・キリストの栄光の中に、恵みと真理が満ちていた。そして自分たちはそれを見たのだ」と言っています。「わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた」とヨハネは言います。主イエスがヨハネに示してくださったのは、「父の独り子としての栄光」です。そして「その栄光の中に、恵みと真理が満ちている」とヨハネは語っています。ですから恵みと真理は、人間の頭で考えたり思いついたりしたものではないのです。「主イエス・キリストの栄光の中に、それははっきりと示されている。そして自分たちはその栄光を見た」と言っています。

 「恵みと真理は見せられるものだ」と、ヨハネは言います。14節で「わたしたちはその栄光を見た」と言っている「見る」という言葉は、原文のギリシア語で読むと「じっくり見つめた、凝視した」という文字です。一瞥したということではありません。「よく見て確かめた」、そういうふうに見たのです。ヨハネの手紙一の書き出しには「初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたものを伝えます。すなわち、命の言について。――この命は現れました。御父と共にあったが、わたしたちに現れたこの永遠の命を、わたしたちは見て、あなたがたに証しし、伝えるのです。――」とあります。手紙の中でもヨハネは、「目で見た。よく見た。手で触れた。見たものをあなたがたに伝える」と言っています。キリストの栄光、救い主としての主イエスの栄光は、私たちが頭の中であれこれと考えを巡らせ、結果を思いつくものではありません。そうではなく、「注意深く何度も見つめるものである」とヨハネは言っています。
 しかし、一体何に目を注げば、このキリストの栄光は見えるのでしょうか。それは、「主イエスがお掛かりになった十字架」です。十字架の上に目を注ぎ、主イエス・キリストが確かにそこに掛かっておられる事実を、何度でも繰り返して確かめることが、「主イエスの栄光を見上げる」ということなのです。この福音書を読んでいると、主イエス御自身が、弟子たちや群衆に向かって、「栄光」について語っておられる箇所に何度も出会います。たとえば7章18節で、主イエスは、「自分勝手に話す者は、自分の栄光を求める。しかし、自分をお遣わしになった方の栄光を求める者は真実な人であり、その人には不義がない」と言っておられます。主イエスは、「自分の栄光ではなくて、自分をお遣わしになった方、即ち、神の栄光を求めている」とおっしゃいます。そして、この時主イエスは、十字架のことを思いながら話しておられるのです。その証拠に、すぐ次の19節で「なぜわたしを殺そうとするのか」とおっしゃいます。主イエスにとって栄光を受ける時とは、十字架にお掛かりになる時です。ですから主イエスを裏切るためたイカリオテのユダが外の暗闇に出て行った直後、主イエスはこうおっしゃいます。13章31節に「さて、ユダが出て行くと、イエスは言われた。『今や、人の子は栄光を受けた。神も人の子によって栄光をお受けになった』」とあります。
 ユダの裏切りによって主イエスは捕らえられ、十字架にはりつけにされて高く掲げられてゆきます。そしてそれが主イエスにとっては、栄光をお受けになる時です。主イエスの栄光は王冠を頭にかぶることではなく、十字架の上から輝き出すのです。その栄光は、私たちの姿を明るく照らし出します。私たちが本当はどのような者なのか、どのように生きているのか、私たちがどんなに弱い惨めな者かということが、主イエスの光に照らされることで明らかになります。そして同時に、十字架の上で主イエスがすべての人間の罪を身代わりとなって背負い、苦しんで死なれることで罪が清算される、「十字架の御業によって赦しが与えられる」ことも教えます。主イエスの十字架がゴルゴタの丘に立てられる時、そこで私たちの罪が明らかにされ、そして、罪が清算されます。それが主イエスの栄光の出来事です。

 今日の聖書箇所には「十字架」という言葉は出てきませんが、しかし11節に「言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった」とあります。この11節は「最小のイエス伝」と呼ばれることもある言葉です。まさしくこの1節の中に、主イエスの全生涯と御業がコンパクトに言い表されているからです。「言」は主イエスです。主イエスが御自身の民のところに来た、しかし民は言を受け入れなかった。それが十字架の出来事です。
 しかし、それで終わりではありません。12節に「しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた」と続きます。最後に言われている「資格を与えた」という文字は、最新の訳である聖書協会共同訳では「権能を与えた」と訳されています。「資格」と言われると、何となく私たち人間の側の持ち物になっているように誤解してしまいそうですが、「神の子とされる」ということは、私たちが自分の力や自分の意志によることではありません。神の側が権威をもって、「お前はわたしの子だ」とおっしゃってくださることで、神が宣言してくださることで、私たちは子とされます。ですからここは、「権能が与えられている」と訳した方か良いかもれません。
 民全体は、主イエスを受け入れずに十字架にはりつけにして殺してしまいました。ところが、そんな中でも主イエスの十字架の上を見上げて、そこから射し込んでくる栄光に照らされる人々がいたのです。十字架の上から輝く光に照らし出される時、私たちは隈なく隅々までを明るみに出されて、自分自身のありのままの姿、醜さ、惨めさ、弱さ、愚かさが示されてしまいます。光の中で人間の惨めさが明らかになります。歩んできた人生において数多くの失敗を重ねて、その歩みが破れに満ちたものであったことも明るみに出てしまいます。しかし、十字架にお掛かりになった方は、まさしく、それらの罪をすべて御自身の側に引き受け、苦しんで死ぬことによって、一切の罪の罰を身代わりとなって清算してくださいました。十字架がそういう救いの御業の果たされた場所だと知って見上げる人には、赦しが与えられ、再び神の子とされて、神の慈しみと導きの中を歩む新しい命が与えられます。そして、それこそ、ヨハネがこの福音書を著すことで願った人間のあり方なのです。

 この福音書が書かれたのは、「あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるため、そして信じてイエスの名により新しい命を受けるためである」と言われていました。父なる神の深い御心のうちをすべて御存知の独り子である主イエスは、御自身をお遣わしになった父の御心に完全に従って十字架まで歩んでくださり、その十字架の上で栄光を現して、私たちを照らし出してくださいます。私たちは十字架の上から輝き、射し込んでくる栄光に照らされて、大きな恵みと真実な神のなさりよう、即ち真理がここに成り立っていることを示されるのです。「恵みと真理はイエス・キリストを通して現れた」とヨハネは語ります。ヨハネは十字架によって神の恵みと神の真実ななさりようが確かに行われていることを、何度も何度も繰り返し確認させられる仕方で、恵みと真理をキリストの栄光の中に見たのです。

 このことを知らされて、私たちも罪を赦された新しい命を生きる者とされているのですが、尚、一つのことを覚えておきたいと思います。このようなヨハネの伝えてくれる福音を聞いて信仰を持って生きてゆく信仰生活は、観客席に座って十字架の赦しのドラマを眺めるような生活ではないということです。信仰生活は、実際によみがえりの主イエス・キリストと共に生き、主イエスに従って生きてゆく生活なのです。
 復活した主イエスは、弟子たちのもとにやって来て、こうおっしゃいました。ヨハネによる福音書20章21節に「イエスは重ねて言われた。『あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす』」とあります。主イエスを信じて赦しのもとに生きる人は、誰でも、主イエスの弟子です。そしてその人は、改めて主イエスから自分の人生へと遣わされてゆくのです。私たちが生きているのは、古い自分がそのままなのではありません。「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす」という主イエスの言葉を聞いて、新しい命、新しい人生に遣わされてゆくようになるのです。
 そしてその際、主イエスは、「聖霊を受けなさい」と言って「聖霊」を私たちに送ってくださいます。人生の節目節目、時々に、「主イエスの十字架の御業によって罪が赦されている。あなたがたは赦された清い者なのだ」ということが思い起こさせられます。昨日までの破れ多い人間ではなく、「あなたは今日、わたしの赦しのもとにある。新しくここから生きて良いのだ」と主イエスがそうおっしゃっていることを、聖霊が思い起こさせてくださるのです。聖霊による励ましを受け、私たちは何度でも、十字架のもとに立たされ、新しい生活に遣わされて生きるようにされていることを思い出させられるようにして生きてゆくのです。
 ヨハネが語る栄光を見る生活とは、そのような生活ではないでしょうか。何度も私たちを明るく照らし出し、温かく覆い包んでくださっている清らかな光に照らされていることに気づかされ、その光の源である主イエスを見上げ、この方を頼りとして、私たちは生きてゆくのです。
 よく見て、確かめて、救しが与えられていることを知って、その赦しを人生の中に持ち運ぶ時、私たちもまた、恵みと真理をそれぞれの生活の中に現し、平和をつくり出す者とされてゆくのではないでしょうか。お祈りを捧げましょう。

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