聖書のみことば
2025年12月
  12月7日 12月14日 12月21日 12月28日  
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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12月14日主日礼拝音声

 荒れ野に叫ぶ声
2025年12月第2主日礼拝 12月14日 
 
宍戸俊介牧師(文責/聴者)

聖書/ヨハネによる福音書 第21章19〜34節

<19節>さて、ヨハネの証しはこうである。エルサレムのユダヤ人たちが、祭司やレビ人たちをヨハネのもとへ遣わして、「あなたは、どなたですか」と質問させたとき、<20節>彼は公言して隠さず、「わたしはメシアではない」と言い表した。<21節>彼らがまた、「では何ですか。あなたはエリヤですか」と尋ねると、ヨハネは、「違う」と言った。更に、「あなたは、あの預言者なのですか」と尋ねると、「そうではない」と答えた。<22節>そこで、彼らは言った。「それではいったい、だれなのです。わたしたちを遣わした人々に返事をしなければなりません。あなたは自分を何だと言うのですか。」<23節>ヨハネは、預言者イザヤの言葉を用いて言った。「わたしは荒れ野で叫ぶ声である。『主の道をまっすぐにせよ』と。」<24節>遣わされた人たちはファリサイ派に属していた。<25節>彼らがヨハネに尋ねて、「あなたはメシアでも、エリヤでも、またあの預言者でもないのに、なぜ、洗礼を授けるのですか」と言うと、<26節>ヨハネは答えた。「わたしは水で洗礼を授けるが、あなたがたの中には、あなたがたの知らない方がおられる。<27節>その人はわたしの後から来られる方で、わたしはその履物のひもを解く資格もない。」<28節>これは、ヨハネが洗礼を授けていたヨルダン川の向こう側、ベタニアでの出来事であった。<29節>その翌日、ヨハネは、自分の方へイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。<30節>『わたしの後から一人の人が来られる。その方はわたしにまさる。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。<31節>わたしはこの方を知らなかった。しかし、この方がイスラエルに現れるために、わたしは、水で洗礼を授けに来た。」<32節>そしてヨハネは証しした。「わたしは、“霊”が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを見た。<33節>わたしはこの方を知らなかった。しかし、水で洗礼を授けるためにわたしをお遣わしになった方が、『“霊”が降って、ある人にとどまるのを見たら、その人が、聖霊によって洗礼を授ける人である』とわたしに言われた。<34節>わたしはそれを見た。だから、この方こそ神の子であると証ししたのである。」

 ただ今、ヨハネによる福音書1章19節から34節までをご一緒にお聞きしました。19節20節に「さて、ヨハネの証しはこうである。エルサレムのユダヤ人たちが、祭司やレビ人たちをヨハネのもとへ遣わして、『あなたは、どなたですか』と質問させたとき、彼は公言して隠さず、『わたしはメシアではない』と言い表した」とあります。ヨハネという人物が登場しています。このヨハネは主イエスの弟子の一人であるヨハネではなくて、他の福音書によると、主イエスに洗礼を授ける洗礼者と呼ばれるヨハネです。彼は1章6節から8節で、「光を人々に指し示す証し人」として語られていました。7節8節では、「彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。彼は光ではなく、光について証しをするために来た」と述べられています。洗礼者ヨハネは、彼自身が光を放つ存在ではなくて、あくまでも、その光を指し示す証しをする者なのだと述べられています。

 ヨハネが指し示す「光」というのは、神の御言である主イエスから輝き出る光・栄光で、14節15節には「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。ヨハネは、この方について証しをし、声を張り上げて言った。『「わたしの後から来られる方は、わたしより優れている。わたしよりも先におられたからである」とわたしが言ったのは、この方のことである』」とあります。14節15節では、洗礼者ヨハネが口を開いて語るという仕方で主イエスのことを指し示していますが、同時に、この福音書を著したヨハネも、「わたしたちは」という言い方で、自分の名前を伏せた匿名の形で、主イエスの栄光を指し示しています。
 ですから14節15節では、2人のヨハネが口を揃えて光である主イエスを指し示すという、印象的な書き方がされています。洗礼者ヨハネが証しをして指し示した光を、福音書記者のヨハネも確かに見たと言い表しているのです。
 「それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた」と福音書記者のヨハネは語ります。「父の独り子としての栄光」というのは、「父なる神の御計画にどこまでも忠実に従う、主イエスの子としての栄光」ということですから、これは「十字架」のことを言い表しているのです。主イエス御自身も、この福音書の中ではしきりと「人の子が栄光を受ける」とか「栄光を受ける時」のことをおっしゃるのですが、その栄光というのは、十字架に挙げられる時のことを指しています。主イエスの光、主イエスの栄光は十字架の上から輝き出るのです。この福音書を著したヨハネが、「わたしたちはその栄光を見た」と言うのは、主イエスの十字架を指し示しています。十字架の光がいつも自分たちを照らしてくださることを、福音書記者のヨハネは証言しているのです。
 そしてもう一人、その主イエスを指し示し、証しをする人物として洗礼者ヨハネが登場しています。こちらのヨハネは福音書記者のヨハネとは違って、主イエスの十字架を、直接その目で見ることはありませんでした。主イエスが十字架の上でお亡くなりになるよりも前に、ヘロデ・アンティパスによって捕らえられ、マルケス城というガリラヤ湖畔に建っていた城に幽閉された後、首を斬られて死んでしまったからです。つまり、福音書記者のヨハネが目撃したような仕方での主イエスの栄光を、洗礼者ヨハネは見ることがありませんでした。光について証しをする者としてやって来た洗礼者ヨハネは、実際にその栄光の現場を目にするよりも先に、世を去ってしまったのです。では洗礼者ヨハネは、どのような仕方で光である方を証しすることができたのでしょうか。

 今日の箇所は、その光の証し人としてやって来たヨハネが、どんな仕方で主イエスを指し示したかが語られているところなのです。このヨハネの証しは、大きく3つに分けて聞くことができます。最初は19節から23節で、ここでは洗礼者ヨハネが自分自身について尋ねられ答えています。「わたしはメシアではない」という言い方で、ヨハネ自身が光ではないということを言い表しています。次は24節から28節で、ここでは、ヨハネが行っていた洗礼について尋ねられ、その答えの中で彼は、「わたしの後からあなたがたの知らない方がやって来る。わたしは、その方の出現に備えて悔い改めるようにと、水で洗礼を授けているのだ」と返事をしています。そして最後は29節から34節で、ヨハネの許に主イエスがやって来られると、「世の罪を取り除いてくださる神の小羊がこの方である」と言って、主イエスのことを指し示すのです。そのような3段階の仕方で、ヨハネは主イエスを証しします。彼の証しに一つずつ順に耳を傾けてみたいのです。

 まずは最初のところです。「エルサレムから遣わされて来た人々がいた」と言われていますが、ということは、洗礼者ヨハネの活動がエルサレムの主だった人たちの耳に入っていて、注目され警戒されていたということを示しています。ヨハネは最初に、自分はメシアではないとはっきり言い切っています。この福音書の最初のところでも、「彼は光ではなく、光について証しするために来た人物である」と語られていました。光そのものではなくて、光についての証し人なので、ヨハネは「わたしはメシアではない」と言い切ったということは何となく分かるような気もするのですが、このヨハネの言葉を聞いた人々が、「では、エリヤではないか」、「あの預言者ではないのか」と矢継ぎ早に尋ねるのは、どうしてでしょうか。
 使いの者たちを遣わしてヨハネの正体を調べさせている人々は「エルサレムのユダヤ人たち」と言われています。この人々は、祭司長たちや長老と呼ばれる、エルサレムの最高法院の構成メンバーです。彼らは面倒な揉め事がヨハネによって引き起こされることを警戒して、ヨハネの活動のありようを調査させるために、人々を送ったのでした。当時のユダヤの、特に地方の治安状態は決して平穏とは言えませんでした。むしろ不穏と言えます。落ち着かない世の中では、いつどこから火の手が上がるか分かりません。世の終わりが近づいていると宣伝して人々の心を不安にさせ、そして、自分こそは今のこの腐敗した時代を終わらせ、次のより良い清い時代を迎えさせることができると主張のする輩が頭角を表して社会の支配者層に立ち向かって来るかも知れません。ヨハネは、エルサレムのユダヤ人たちからそのような疑いの目で見られました。メシアでないとしても、エリヤや、終わりの時に出現すると人々に噂されていた預言者ではないかと尋ねたのは、ヨハネが疑われていたからなのです。ヨハネへの疑いは、その活動の中で、社会的不正を批判して悔い改め新しく生きるように呼びかけた、その呼びかけも関係していると思います。そして、ヨハネの呼びかけに応じて大勢の人がヨハネから洗礼を受けていた、そのこと自体が、エルサレムの支配者層には脅威をもたらす出来事でした。

 遣わされて来た使いたちは、自分たちが思いつく、反乱の首領となりそうなことを尋ねたのですが、ヨハネがすべて違うと否定したために、ヨハネ自身に「では、あなたは自分をどのような者と言い表すのか」と尋ねました。その答えが23節です。「ヨハネは、預言者イザヤの言葉を用いて言った。『わたしは荒れ野で叫ぶ声である。「主の道をまっすぐにせよ」と』」とあります。このようなヨハネの返事で、調査にやって来た人々は果たしてヨハネが何者でその正体を理解できたのでしょうか。ヨハネは自身のことを「一つの声である」と言い表します。もちろんヨハネ自身は思うところがあって、このように答えているのです。それは、人間を温かに照らす光の源となる命の言、そのような言が肉体をとってやって来ることを思って、ヨハネは自分自身のことを「その言の訪れを伝える一つの声だ」と言い表すのです。
 ヨハネが言に代わって話すということではありません。そうではなくて、「言が来る」ことを告げる呼び声です。相撲で横綱が土俵入りをする時に、露払いが横綱の前を歩き、太刀持ちが続くみたいに、ヨハネはキリストの少し先を歩いて、人間を照らし温めてくださる命の言がやって来ることを人々に告げ知らせる声なのです。あるいは、朝に太陽が顔を出す前、暁と呼ばれるような時間帯に東の空が白んで光がほのほのと辺りを明るく照らし出すのにも似て、ヨハネはまことの言の訪れを少し早く伝える一時の声なのです。ヨハネは「命の言を指し示す声」となって人々に呼びかけます。「主の道をまっすぐにせよ」と。即ち、「不正が横行し力の強い者が弱い者たちを虐げる腐敗した世の中は永久に続く訳ではないから、神の恵みに信頼して新しい者となって生きるように」と人々を招き、それに応じた人には洗礼を授けたのでした。

 しかしこのような説明は、元々そのような命の言のやって来ることなど期待していない人たちには、まったく理解できなかったのではないでしょうか。調査のために訪れた人たちは、ヨハネの説明を聞いても、尚、疑わしそうな顔でヨハネを見ています。彼らは、自分のことを「荒れ野に叫ぶ声」であると説明したヨハネを理解できず、煙に巻かれたような思いになっています。
 そこで彼らは、自分たちの疑いを、別の形で確かめようとします。ヨハネの洗礼は何故行っているのかを尋ねるのです。 25節に「彼らがヨハネに尋ねて、「『あなたはメシアでも、エリヤでも、またあの預言者でもないのに、なぜ、洗礼を授けるのですか』と言うと」とあります。エルサレムにいる当局者たちも調査に訪れた人たちも、ヨハネが人々に悔い改めを説いて洗礼を授けている行為は、社会批判を行って世直しをするための党派作りのようにしか感じられません。つまりヨハネ自身が首領となって世の中の大掃除をする準備として洗礼を授け、人集めをしているように思えるのです。
 ヨハネはこの問いに対しても、まことの言を指し示す声の働きに徹します。即ち、ヨハネが洗礼を授けているのは、「エルサレムの支配者たちがまったく思っていないような、知らない方がヨハネの後からおいでになるので、その方を迎える準備として水で洗礼を授けている」と語ります。その方が実際にやって来た暁には、ヨハネ自身は、「その方の履物のひもを解く値打ちもない小さな者にすぎない」と答えます。26節27節に「ヨハネは答えた。『わたしは水で洗礼を授けるが、あなたがたの中には、あなたがたの知らない方がおられる。その人はわたしの後から来られる方で、わたしはその履物のひもを解く資格もない』」とあります。当時、主人の履物のひもを解く仕事は奴隷の中でも最も身分の卑しい者に割り当てられたと言われています。その資格すらないということは、ヨハネが、彼の後から来る方はどんなに大きな方だと思っていたかを表しています。そして、その方の前で、自分は本当に小さな者でしかないと思っていたことも表しています。

 さて、その翌日のことです。ヨハネは、自分が指し示すようにされていた後から来る方と直接対面するということになりました。最初からそういう予定だった訳ではありません。ヨハネとすれば、突然の出会いです。31節と33節に2度、「わたしはこの方を知らなかった」とヨハネが繰り返している言葉から、そのことが分かります。知らない相手と予め面会を予定することは誰にもできません。
 ヨハネは、主イエスと出会った時、強い印象を受けたようです。それで、この方について新たな証しの言葉を語りました。29節に「その翌日、ヨハネは、自分の方へイエスが来られるのを見て言った。『見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ』」とあります。元々社会の不正を指摘して批判し、悔い改めの必要性を説いてきたヨハネですから、世から罪が取り除かれるということは、彼の悲願だったに違いありません。しかし、どのようにすれば人間が自分中心に生きてしまう罪から離れることができるのか、その方法をヨハネは知りません。「今の世界のありようがそのままで永久に続く訳ではない。今の不正と暴力に満ちた倒錯した世界が、そのまま持ち堪えることなど不可能だ」とヨハネは考えています。だからこそ、神の前に悔い改めて新しい生き方をする必要性を訴えて、洗礼を授けていました。しかしそのような活動を続けながら、ヨハネ自身は思わずにいられません。いくら新しく生きるのだと思って真剣に悔い改めたとしても、その決意は決して長続きしないのです。
 これは私たちにも思い当たることがあるだろうと思います。日曜日に礼拝にやって来て、ここで聖書の御言に触れている時だけは、私たちの心の内に新しい思いが生じてきて、神のものとなって生きてゆきたいという憧れや、そのように生きようとする決心が与えられます。けれどもそれは長続きしません。教会堂から出て日常の生活に戻るや否や、私たちはすぐに神を忘れ、自分中心の古い生き方に戻ってしまいます。ヨハネも彼が授けていた洗礼に、それに似た限界を感じていたのでした。洗礼を受ける瞬間は良いのですが、すぐその直後から堕落が始まる現実は、誰の力でも、誰の頑張りでも食い止めることができません。ですからこそヨハネは、自分の後からおいでになる方の前では、自分はその履物の紐を解く資格すら持っていないと言い表したのです。洗礼を受けるように人々に勧め、悔い改めを宣べ伝えていたヨハネですが、そのヨハネ自身が本当に罪を離れた清らかな生活ができているかと言えば、そんな風には生きていないことを自覚しているのです。ヨハネは、今の倒錯した世界が決して持ち堪えられずに滅んでしまうに違いないと考えて、洗礼を宣べ伝えていました。しかしいくら水で洗っても、人間は変わることは難しいという現実を、ヨハネはしみじみと思わずにはいられなかったのです。

 ところが、主イエスに出会った時、ヨハネの心に新しい感動が生まれました。この方の中には、本当に罪がなかったからです。この方が完全に神に信頼し、いつも祈って、まるで神と二人三脚のように歩んでいる姿を目の辺りにしました。そして、この方との出会の中で、ヨハネには今まで思ってこなかった新しい理解が生まれるのです。それが、「神の小羊」という言葉に表されています。
 「神の小羊」とは、エジプト脱出の前夜、神がイスラエルの人々への裁きを過越してくださるために、家の鴨居に羊の血を塗って目印とするようにとおっしゃってくださった出来事に由来します。あの時イスラエルの人々は、全員が正しかったので裁きを免れたのではありません。羊の血の目印に免じて、神が裁きを過ぎ越してくださったので、イスラエルの人たちは一人も撃たれることなく、エジプトから脱出できたのでした。
 主イエスという方に出会って、この方が神に心から信頼し、従っておられる姿に出会って、ヨハネはこれまでの考え方を変えるようになりました。即ち、これまでは人間一人ひとりが自分の中に神の前に通用するような清さを持たなければならないと思い、悔い改めを宣べ伝え、洗礼を勧めていました。しかし実際に主イエスに出会ってみると、そのような清さを人間が持つことは決してできないことが分かるのです。
 ではどうやって、裁きの滅びを免れるのか。それはかつて、イスラエルの家が鴨居に羊の血を塗って滅びを過ぎ越していただいたように、「神の小羊」である方を自分の中にお迎えして、この方によってしるしをつけてもらい、裁きを過越していただくという考えです。ヨハネはそう気がついて、主イエスを「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」と語ったのでした。

 しかし、このヨハネのような考え方は、果たして本当に通用するのでしょうか。彼は「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」と、主イエスのことを言い表しました。この主を私たちの中にお迎えして、しるしをつけていただいたとして、それで本当に罪が取り除かれるのでしょうか。主イエスによってつけていただくしるしは、私たちにとって単なる形だけのものに終わってしまって、結局、ヨハネが告げ知らせた悔い改めの洗礼と同じように、形だけは神のもののようだけれども、実は自分中心の我がままばかりが先に立つあり方は何も変わらないという風にならないでしょうか。主イエスによってしるしづけられている、見かけだけは清らかそうでいて、その実、本当の姿は、罪にどっぷり浸かり込んでいるというようなことにならないでしょうか。
 ヨハネは、主イエスと出会って分かったことがあったのです。それは、主イエスがただお一人だけで清らかなのではなくて、神に絶えず祈り、神から霊の助けをいただいて、本当に清らかに生きていかれる方だと気がつきました。神の子は、自分一人きりで神の子なのではなくて、父なる神との間に聖霊による交流があり、それによって本当に力を与えられ、神の子として歩んで行くのです。

 私たちが主イエスによってしるしをつけられる、それは主イエスの名によって洗礼を受けるということですが、そのようにして主イエスを自分の中にお迎えすることで、聖霊を受け、清められた生活を始めることができるようになります。
今日のところの最後でヨハネは、「この方こそ神の子である」と証しをするのですが、私たちもまた、主イエスから聖霊をいただいて、新しい清らかな生活を生きるようにされています。

 最後に、ヨハネによる福音書20章21節から23節をお読みして終わります。「イエスは重ねて言われた。『あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。』そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。『聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る』」。神がまことの言である主イエスをお送りくださったように、主イエスは私たちをこの世界の生活に遣わしてくださっています。そして、聖霊を送ると約束してくださいます。私たちはこの約束のもとで、清められた者として歩んで良いと語りかけられています。お祈りをささげましょう。
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