聖書のみことば
2026年2月
  2月1日 2月8日 2月15日 2月22日  
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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■音声でお聞きになる方は

2月1日主日礼拝音声

 わたしのものはお前のもの
2026年2月第1主日礼拝 2月1日 
 
宍戸俊介牧師(文責/聴者)

聖書/ルカによる福音書 第15章25〜32節

<25節>ところで、兄の方は畑にいたが、家の近くに来ると、音楽や踊りのざわめきが聞こえてきた。<26節>そこで、僕の一人を呼んで、これはいったい何事かと尋ねた。<27節>僕は言った。『弟さんが帰って来られました。無事な姿で迎えたというので、お父上が肥えた子牛を屠られたのです。』<28節>兄は怒って家に入ろうとはせず、父親が出て来てなだめた。<29節>しかし、兄は父親に言った。『このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。それなのに、わたしが友達と宴会をするために、子山羊一匹すらくれなかったではありませんか。<30節>ところが、あなたのあの息子が、娼婦どもと一緒にあなたの身上を食いつぶして帰って来ると、肥えた子牛を屠っておやりになる。』<31節>すると、父親は言った。『子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。<32節>だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。』」

 ただ今、ルカによる福音書15章25節から32節までを、ご一緒にお聞きしました。
 25節に「ところで、兄の方は畑にいたが、家の近くに来ると、音楽や踊りのざわめきが聞こえてきた」とあります。新共同訳聖書で今日の箇所は25節から一つの段落にはなっていますが、特別な見出しが付けられてはいません。15章は、1節の前には「『見失った羊』のたとえ」、8節の前には「『無くした銀貨』のたとえ」、そして11節の前には「『放蕩息子』のたとえ」といった具合に、ゴチック体の小見出しが付けられています。この小見出しは、本来の聖書には書かれていない言葉です。新共同訳聖書の翻訳者が聖書を読む上で手助けになると考えて便宜的に付け加えたもので、小見出しの言葉は本来の聖書の言葉ではありません。そのため、礼拝の時にはこれは読まないことになっています。本来の神の言葉ではないためです。

 ところで、小見出しがないために、この箇所は「放蕩息子のたとえ」に続く後半部分の記事のように読めてしまいます。この箇所をそんな風に読む場合もあるとは思うのですが、しかし、今日の記事のような言葉が聖書の中から聞こえてくると、考えさせられるのではないでしょうか。
 この記事は何故、放蕩息子の帰宅の記事の後に語られているのでしょうか。仮に15章が24節までで終わっていたなら、この章は非常にすっきりした構成になっていただろうと思います。3つのたとえ話を通して「失われていたものが見出される喜び」が語られていることになるでしょう。そしてそういうことであれば、私たちは大いに慰められ励まされることになるでしょう。
 ところが今日の箇所は、前に3つ並んでいるたとえ話と比べてみますと、少し雰囲気が違うように感じるのではないでしょうか。弟息子がはるばる遠い地から父の家に戻って来た、失われていた者が見つけ出された、それに対して、兄息子は大変冷淡な反応をしています。兄息子の厳しい対応が今日の記事から聞こえてきます。これはどうしたことでしょうか。小羊が捜し当てられ、銀貨が見つけ出され、弟息子の帰宅が喜んで迎えられる、そういったこれまでの筋書きから考えますと、今日の箇所はずいぶん違うという印象を受けます。
 最初の3つのたとえ話からは、私たちも父の許に立ち返るのだという勇気を与えられます。けれども、そのようにせっかく父の許に立ち帰って、あふれんばかりの喜びが満ちているところで、この兄のような能度もまたあるのだと聞かされますと、父の許に立ち返ることについて、「自分も迎えてもらえる」と無邪気に信頼することが難しくなるのではないでしょうか。今日の兄息子のような態度は、これまでこの15章にずっと流れてきた「失われた者たちが見出されることの喜び」に水を差すような態度ではないでしょうか。

 そう考えますと、今日の記事は、放蕩息子が帰宅するたとえ話の単なる後半部分ではないということに気づかされるのではないでしょうか。この兄息子の態度は、15章の話全体の中では確かに異質です。音楽にたとえるならば、今日の箇所は不協和音を奏でています。ですがこういった不協和音は、私たちの社会ではよくあることです。今日のたとえ話に限りません。主イエスがこの話をなさった時にも、こういう、兄息子のような人たちは、現実に主イエスの前にいたのでした。15節の初めを読むとそのことが分かるのです。1節から3節に「徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、『この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている』と不平を言いだした。そこで、イエスは次のたとえを話された」とあります。こういう前置きがあって、主イエスは次々とたとえ話をなさったのでした。
 主イエスの話を聞こうとやって来るのは、徴税人や罪人たちだけではありません。兄息子のような人々、ファリサイ派や律法学者たちもいたのでした。彼らは思い思いに、問いや疑問や批判や悪意を心に抱いて、その場にいたのでした。いなくなっていた弟息子が我が家に帰る時、この人たちもそこに居合わせます。そして主イエスは、そういう人たちも父の許に招こうとなさいます。それで主イエスは、もう一人の息子、兄息子の話を聞かせられるのです。

 私たちはそれぞれに、自分と神との1対1の関係を生きているだけではありません。私たちにはそれぞれ、主にある兄弟姉妹があります。それぞれのあり方に従って、いなくなった者と、家にずっと留まっている者とがいます。しかしどんなあり方をしていても、私たちは互いに兄弟姉妹です。私たちの人生には、父なる神との間柄があるだけはありません。兄弟姉妹との関係もあるのです。しばらくいなくなっていた弟息子が戻って来るのは、彼と父親との間柄のことだけではありません。勿論、父がいればこそ、弟息子は家に帰って来ました。しかしこのことは、他の兄弟姉妹が生活している生活空間の中に戻って来るということでもあり、従ってそのことは、他の兄弟姉妹とも関係のあることなのです。

 さて、しばらくいなくなっていた弟息子は、兄息子とどのように出会うのでしょうか。兄も父と同じように弟に手を差し出し、兄弟としての固い握手を交わすのでしょうか。それとも兄は、弟に対して手を引っ込めるのでしょうか。今日の記事には、そのような緊張感が漂っています。
 そして、この兄弟の間柄について、最終的にどうなったかはここに述べられていません。兄息子も最終的にこの喜びの宴に連なったのか、それとも遂に家の外に立ちつくしたまま不機嫌でいたのか、その最後のところは語られません。主イエスはあえて、その結末をお語りになりませんでした。それは、このたとえを聞く者、つまり私たちへの問いとして開かれているのです。
 この記事を聞くと、考えさせられるのではないでしょうか。私たちはお互いを、兄弟姉妹として受け容れているでしょうか。年長者と若い人たち、教会員と客員や求道者たち、教会生活が長い人と短い人、私たちは決して皆が同じ一つの色に染まっているのではありません。世代も性別も社会の立場も、お互いにまったく違う者たちが、この教会、父の家に招かれ、ここで共に礼拝をささげ、皆で神のなさりようを讃えて時を過ごします。そして、そのようにして一緒に過ごす様子は、どこかしら、今日のたとえ話に登場する兄弟の姿に似ているのではないでしょうか。皆、お互いにとても違っています。それでも皆最終的に、最も深いところでは相手無しではいられずに、お互い同士つながっているのです。
 私たちは、お互いを受け容れられるのでしょうか。互いに相手を信頼できるのでしょうか。互いに相手について望みを持てるでしょうか。それとも、互いに対立し合って反目し、相手を拒否するのでしょうか。私たちが本当の意味で主にある家族としてお互いを認め合い、希望を持ち、交わりを築いていくということは一体どういうことなのかということを、今日の記事は私たちに問いかけています。

 ところで、今日の記事では明らかに兄息子のあり方に光が当てられています。兄息子が弟息子に対してどのような態度を取るのかが問われています。その逆ではありません。そして兄息子は、まさしくそのことで大変苦労しています。何と言っても、この兄息子は、弟とはまったく逆の生活をして来ています。兄息子はこの日、家を離れていましたが、弟のように気ままに振る舞って遠くに行っていたためではありません。「ところで、兄の方は畑にいたが」と言われているように、彼は一日働いていたのです。朝早くから畑に出て、その日の仕事にいそしみ、そしてくたびれて家に帰ってきました。ところが帰ってみると、兄息子はびっくりさせられるのです。家からは音楽や踊りのざわめきが聞こえたからです。一体何が起こっているのかと、兄息子は思ったことでしょう。兄息子には、当然ですが、家に帰って休む権利があります。彼は当然、それだけの資格を持っています。一日中誠実に働いて、義務感が強く、信頼できる良い働き手としてこの日を過ごしたからです。その彼が今、思いがけなくも家を勝手に飛び出して行った末に救いのない暮らしをして財産の一切を使い果たしてしまい、そして帰って来た弟息子と出会うようなことになっているのです。そんな弟に、兄は手を差し伸べなくてはならないのでしょうか。そんな勝手な弟と、食卓を共にしなければならないのでしょか。父親がその帰宅を祝って贅沢三昧に用意させた祝いの席に着かなくてはならないのでしょうか。兄が不満を感じて文句を言い出すのも、最もなことではないでしょうか。父親のやっていることは、弟息子に対してあまりにも甘いように兄息子には思えたのです。
 それに、父親が弟息子を迎えて宴会を催しているかかり、即ち、費用はすべて兄息子の懐から出ています。12節で、弟息子が彼の分け前を親にねだった際、父親は財産を二人に分けてやったと言われていました。もちろん、兄には両親を扶養するために弟よりは多くの分が与えられたとしても、少なくともこの家の財産の持ち主は、今は兄息子です。その兄に無断で、父親は肥えた子牛を屠り、弟のための祝宴を開いています。長年父親と一緒に働いて来て、しかし自分が友人と一緒に宴会を催そうとする時に、一頭の子山羊ですら貰えなかったことを思い起こすと、兄の中には無念さと悲しみと怒りがこみ上げてきます。自分がいかにもないがしろにされ、軽く扱われているように思えてならないからです。
 これまで勝手なことをして救いのない生活をしてきた者のために祝宴が用意され、一方律儀に生きて来た自分には何一つ与えられない、結局のところ、「自分は馬鹿を見ている。見せられている」と兄は感じたのです。一体、正義どこにあるのでしょうか。

 ところで、このように兄息子の抱えていた悲しみと寂しさと怒りを考えてみると、ふと、あることに気がつくかも知れません。兄息子の心には確かに一本の棘が刺さっています。しかしこの棘は、弟が帰って来たことに対して向けられている棘ではありません。そうではなくて、父親の自分に対する振る舞い方に向けられている棘です。父親がもっと自分に感謝し、自分の努力を認め、尊重してくれたら良いのにと思う棘が、兄息子の深いところに刺さっているのです。
 しかし、それが父親というものではないでしょうか。主イエスは、今日のたとえ話の中で、生ける神を「そういう父なのだ」と証しをしておられます。それを口でおっしゃるだけではありません。無数の放蕩息子たち、即ち、救いのない歩み方をして命を無駄に費やしてしまう者たちの罪を御自身の身に引き受け、十字架にお掛かりになるために、今、主イエスは、エルサレムに向かって歩んでおられます。主イエスがここで証しする「父親が放蕩息子のために屠ったよく肥えた子牛」とは、実は主イエス御自身のことなのです。天の父は御自身の子らのために、そのようなことをなさる方であることを、主イエスはこのたとえ話の中で証しされます。兄はそのことに不満でした。ですが主イエスは、この兄弟たち両方のために、その命をささげられました。弟息子のため、そして兄息子のためにも御自身をささげられます。この兄弟は、そういう父の愛の下に生かされます。そして二人共、この父の愛がなければ生きてゆけないのです。
 ただし、これは愛であるために、兄息子も弟息子も、自分の働きの見事さによって、それを力づくで手に入れることはできません。父の愛は、父からの自由な贈り物です。それを受ける時には、私たちは、ただ手を空っぽにして、その贈り物を頂くだけなのです。そしてまさに、そういう事情であるために、放蕩息子の話の後に、兄息子の話が語られているのです。兄息子の手は、空っぽではなかったためです。彼の両手は、自分の正しさで一杯になっています。兄息子はいつでも、その様子を父親に見せることができます。29節に「しかし、兄は父親に言った。『このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません』」とあります。これは嘘ではないでしょう。本当のことです。兄息子は自分の働きやあり方の見事さや成果の大きさについては自信があります。しかしそれでいて、この兄息子のあり方には喜びがありません。父が与えてくれる愛を受け取るのではなく、すべてを自分の手柄にしょうとするからです。

 そしてそのために、この兄息子は父親から聞かされるのです。31節に「すると、父親は言った。『子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ』」とあります。兄息子からすると、この父親の言葉は当たり前に思えたかもしれません。「子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ」と語りかけられます。兄息子にすれば、当然でしょう。今や父親の財産は2つに分けられて、弟は受け継いだものをすべて失ってしまいましたから、父親の財産で残っているものはすべて兄息子のものです。
 ですが逆に言うならば、兄息子の財産は、すべて父から委ねられたものなのです。この兄息子はそのことに気づいているでしょうか。「わたしのものは全部お前のものだ」と言われている最初の言葉、「すべては、最初は父のものだ」ということを忘れて、全部自分で勝ち取ったもののように思っているのではないでしょうか。それは、この兄息子だけではありません。ここにいる私たちもまた、生活してゆく上で、自分に委ねられ与えられている富や宝を用いて生きてゆくのですが、その大元にある、命を初めとして私たちに与えられているものは、すべて父からの贈り物であることを忘れていないでしょうか。「わたしのものは全部お前のものだ」という父親の言葉は、その逆もまた本当のことなのです。「あなたに与えられている命も、生活も宝も、そのすべては、わたしが愛をもってあなたに与えたのだ」と、父なる神はおっしゃいます。
 主イエスは、天の父がそのような方であることを知らせるために、今日のこの4番目のたとえ話をなさったのです。

 当時、このたとえ話を聞いた人々が主イエスのおっしゃろうとしたことを理解できたかどうかは、よく分かりません。そして私たちがここで主イエスのおっしゃることを理解できるかどうかは、今からの私たち自身の生き方の中に表われて来ることになるでしょう。天の父は今日の箇所で、確かに私たちにも語りかけておられます。私たちが手を開いて、父なる神の愛の贈り物を受け取るようになることを、そしてその与えられた愛ゆえに、私たちもまた父を愛し、兄弟姉妹を愛し、隣り人を愛する愛が私たちの内に生まれることを、神は望んでくださっています。

 そのような神の愛によって罪と過ちを赦され、新しい命を共に生きてゆく群れとして、教会は地上に立てられています。私たちは、この群れの中に抱かれている幸いな者たちとされていますから、それに相応しく歩んでいきたいと願います。お祈りをささげましょう。

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