ただ今、ルカによる福音書16章1節から13節までを、ご一緒にお聞きしました。1節に「イエスは、弟子たちにも次のように言われた。『ある金持ちに一人の管理人がいた。この男が主人の財産を無駄遣いしていると、告げ口をする者があった』」とあります。「イエスは、弟子たちにも…言われた」と始まっています。これは直前の15章で語られていた3つないし4つのたとえ話が全部ファリサイ派の人々や律法学者たちに向けて語られていたことに関係しています。主イエスがある所で話しておられると、その主の話を聞きたいと思って大勢の徴税人や罪人たちが集まってきました。ところが主イエスの話を聞いている人たちの中には、主イエスの失言をつかまえて揚げ足をとってやろうと思っている人たちもいて、その人たちが、主イエスの言葉尻を捉える以前に、そこに集まって来ている人々の顔ぶれを見て、「この人は罪人たちを迎えて食事まで一緒にしている」と言って、主イエスを非難しました。
それを受けて主イエスは、「失われていた人が神の民の群の中に連れ帰られ、見出される時に、どんなに大きな喜びがあるか」を3つのたとえでお語りになり、最後に放蕩息子の兄の話をもう一つして、「自分自身の正しさを精一杯に抱えて誇らしげにしているあり方では、神の慈しみと愛を受けて喜んで生活することができない」ことを教えました。
15章のたとえ話はそのように、そのすべてがファリサイ派の人々や律法学者たちに向けて語られた言葉でした。そして今日のところでは、御自身の弟子たちの方に向き直って、彼らに向かっても話し始められたのです。
主イエスは弟子たちを教える目的で話しておられるのですが、場面としては、そこには依然としてファリサイ派の人々や律法学者たちも一緒にいて、主イエスの言葉に耳を傾けています。今日は13節までを聞いていますけれど、次の14節になると、金に執着するファリサイ派の人々が主イエスの話を聞いて嘲笑うという風につながって行きます。今日のたとえ話は、主イエスは弟子たちに聞かせようと思って話しておられるのですけれども、そこに居て耳を傾けているのは弟子たちだけではなく、主イエスに対して批判的な人々も、心の中で主イエスに反発を感じている人々もいたのでした。
主イエスはしかし、その人たちも弟子たちと同じように父の許に招きたいと思いながら話をなさっておられます。
ところでこの日、主イエスが弟子たちになさったたとえ話は、一体これをどう受け止めてよいのか、戸惑うようなたとえ話でした。一人の主人の財産管理を任されている管理人のたとえ話です。この管理人が主人の財産を無駄遣いしている、つまり、主人から預かっているものを浪費していると主人に告げ口をする人があったのです。
その結果、この管理人は主人に呼び出され、管理人の仕事を取り上げられることになります。2節に「そこで、主人は彼を呼びつけて言った。『お前について聞いていることがあるが、どうなのか。会計の報告を出しなさい。もう管理を任せておくわけにはいかない』」とあります。この主人は、「お前について聞いていることがあるが、どうなのか」と尋ねています。もしも悪い噂が根も葉もないでたらめであったならば、当然、この管理人は釈明をして、自分にかけられている嫌疑が事実無根のものであって自分は不正を行っていないと、身の潔白を主張したことでしょう。しかし、そのような主張をした様子は伺えません。ということは、この管理人について告げ口されたことは本当のことで、そのためにこの人は財産管理の仕事を取り上げられることが決定したということになります。主人に最終的な会計報告を出すまでの僅かな時間しか、この管理人には残っていません。
そういうまことに重苦しく緊迫した状況の中で、この管理人は思いがけない行動に出ます。僅かに残されている時間の中で、この管理人は主人から借財をしている債務者を次々に呼び出し、そして証文を書き改めさせ、債務のある人々の負担を軽くしようとしたのです。5節から7節に、「そこで、管理人は主人に借りのある者を一人一人呼んで、まず最初の人に、『わたしの主人にいくら借りがあるのか』と言った。『油百バトス』と言うと、管理人は言った。『これがあなたの証文だ。急いで、腰を掛けて、五十バトスと書き直しなさい。』また別の人には、『あなたは、いくら借りがあるのか』と言った。『小麦百コロス』と言うと、管理人は言った。『これがあなたの証文だ。八十コロスと書き直しなさい。』」とあります。一体、何が起こっているのでしょうか。この管理人は主人から不正を咎められて職を失おうとしています。不正の上に更に不正を重ねてゆくのでしょうか。この管理人の姿は、そのように見えてしまいます。主人の財産を浪費した上に、その最後のところでも尚、主人の財産を目減りさせているように感じてしまいます。
ところが、どうにも腑に落ちないのは、この管理人のやり方を知った主人の態度です。普通に考えれば、この管理人の仕業に憤り叱りつけることでしょう。ところがそうではなかったのです。8節に「主人は、この不正な管理人の抜け目のないやり方をほめた」とあります。どうして主人は「ほめた」のでしょうか。この主人は馬鹿なのでしょうか。途方もなく気前が良のでしょうか。それとも管理人のやったことに、何か隠された意味があるのでしょうか。管理人の行ったことは、一体全体、何だったのでしょうか。それは、「利息を棒引きする」ということでした。
現代の日本社会ですと、借金をすれば当然のこと、その元々のお金に利息を加えた金額を返済する義務が生じます。私たちは利子や利息のある社会に暮らしていて、それを当然のこととして受け止めています。ところが古代ユダヤの社会はそうではありません。律法では、利息を取ることは禁止されていました。たとえばレビ記25章35節から37節には、「もし同胞が貧しく、自分で生計を立てることができないときは、寄留者ないし滞在者を助けるようにその人を助け、共に生活できるようにしなさい。あなたはその人から利子も利息も取ってはならない。あなたの神を畏れ、同胞があなたと共に生きられるようにしなさい。その人に金や食糧を貸す場合、利子や利息を取ってはならない」とあります。ここには明らかに、利子も利息も取ってはならないということが繰り返して語られています。利子や利息を取る目的でお金や食料を貸すのではなくて、むしろ、同胞を助けるように施すか、貸すとしても無利子で貸すか、それが求められていました。表向きには、ユダヤの社会の中に利息は存在しないことになっていたのです。日本の社会では当然利息を支払わなければ借りることができない、そういうお金や食料が、ユダヤ人社会では無償で貸し与えてもらえたり、あるいは贈り物として受けることができたのでした。
けれども、そういう表向きの話と現実は、実際かなり違っていました。古代のユダヤにも、現実には利息のようなものが存在しました。それはどういう形で存在したのでしょうか。それは、借金の証文の額面を実際に借りた額よりも大きな額に変えることで、実際には借金を返済する時、元々借りた額よりも多い額を借りた人は支払わなければならなかったのです。表向き利息は取らないことになっていますので、たとえば80万円の現金を融通してもらった人が、100万円の借用証書を作るような形をとって、実際には20万円が利子として支払われていたのです。
この管理人は、あと僅かしか残されていない限られた時間の中で、自分の主人に負債のある人々を呼び集めて、彼の手にある借用証書を、すべて借りた時の本当の金額に合わせてやったのです。それは、元々の律法の精神にも叶うことでした。そうやって、この管理人は自分の主人に損害を負わせることなく、借金をした人たちの負債を軽くしてやり、主人に対しても自分に対しても、お金や食糧を借りた人たちが感謝して好意を寄せるように仕向けたのでした。主人が「抜け目ない」と言って褒めたのは、そういうこの管理人のやり方でした。
元々の油や小麦粉は、主人の家の倉庫から運んで貸し付けたものですけれども、証書の額面にかかわらず、実際にどれだけの分量を貸し付けたかを知っているのは、主人の財産を実際に貸し与えた管理人だけです。この人は、自分の働きのあり方を咎められて勤めも収入も一切を失ってしまう、その一歩手前のところで、自分の記憶を総動員して、主人から借財した人たちに、本来の金額や分量を示して見せることで、多くの人の好意を受けるようにしたのでした。それがこの管理人にとって、ここまで彼が歩んできた管理人としての人生の総決算であり、彼自身の人生の棚おろしをするようなことだったのです。主人への会計報告を出すように求められた管理人は、そんなやり方で、彼がこれまで行ってきたことに向き合い、そして正直に、また愛を持って出会った人々に向き合ったのでした。
主イエスは、そういう管理人のたとえ話を、次のような言葉で締め括られます。8節の後半に「この世の子らは、自分の仲間に対して、光の子らよりも賢くふるまっている」とあります。これは、どういうことを教えようとしているのでしょうか。今日のたとえ話に出てくる管理人は、主人から落ち度を指摘され、その指摘に対しては申し開きができないと考え、もうじき職を失う状況の下にあります。しかしその状況で、自分がこの先も生き続けて行くことのできる道を懸命に考え、既に多くの人々の感謝と好意によって、その人たちに支えられて生きてゆける道をどうにか切り開けそうになっています。「この世の子ら」には、いつでもそんなところがあるのではないでしょうか。どうやったら、困難の中でも自分がこの先生きてゆけるかを真剣に考え、行動して、道を切り拓いてゆくのではないでしょうか。そういう凄みのようなものが、この世の子らの中にはあるのではないでしょうか。暗闇の中にあっても、懸命に手探りして前に向かって進もうとする、そういう力が漲っているのではないでしょうか。
ところが「光の子ら」には、時として、そのようなひたむきさが失われてしまう場合があるのです。「光の子」というのは、主イエスの光に照らされて自分の惨めさに気づかされながらも、同時に、その主イエスの十字架の贖いによって心励まされ、温められて、新しく生きるようになっている者たちです。
ところが、そういう光の子らが、時としてすっぽりと落とし穴に滑り込んでしまうようなことがあるのです。即ち、主の光に照らされていると心に思うことで、すっかり満足してしまい、光の子としてふさわしい生活をすることを忘れてしまうという危険です。主イエスが共に歩んでくださる生活というのは、私たちにとっては、実際に自分が生きてゆく生活です。その生活の中に主イエスが常に伴ってくださり、頑なで弱く惨めな者にすぎず、失敗しがちな私たちを、たえず慰め支え、励ましてくださるのです。ところが、現にそういう生活に置かれている光の子らが、それを喜んでいながらも、そのことに感謝せず、賛美も祈りもしないで、ただ漫然と生きてしまうということがあり得ます。すると、光の子とされている生活は、ただ頭の中で「わたしは赦されている」と思っているだけの生活になってしまうのです。光の子らしく歩もうとしないならば、光の子は、実際には闇の中を歩んでいることと何も変わらなくなってしまいます。
本当に主イエス・キリストに伴って頂き、罪を赦され新しくされている、光の子とされているのならば、そのことに感謝して、喜びと賛美を表し、またキリストが私たちを愛してくださっている愛のお裾分けを私たちも周りの人たちに運んで行って、皆で共に喜んで生活できるように祈り行動するのが、あるべき姿ではないでしょうか。ところが弟子たちは、自分たちが主イエスに伴って頂き、教えられたり、励まされたり、温められたりすることで満足してしまいます。そういうことがあるので、「この世の子らは、光の子らより賢い」と主イエスはおっしゃるのです。
主の光に照らされる時、私たちは一人の例外もなく、このたとえ話に出てくる管理人のような立場に置かれます。主人の財産を浪費してそのことを咎められている、そういう管理人のような立場に私たちも置かれるのです。これは、神が私たちに与えてくださった人生を神に喜ばれるように生きるのではなく、浪費してしまうということです。主に光に照らされて、その光の中で、自分を正しい者と主張したり自分自身を誇れる人は、どこにもいないのです。
このたとえ話の管理人の場合には、彼の記憶する限りの主人に負債のある人たちに対して利息を棒引きにしてやり、仲間として認めてもらおうとしました。こういう管理人のあり方を聞かされるときに、振り返って私たちは、自分自身の有りようを考えることができるのではないでしょうか。主イエスの光に照らされそこで自分の過ちと罪が明るみに出される、それと同時に、主イエスによって赦され新しい命を生きるようにされている、そうであるならば私たちは、自分が歩んで来た道の中で失敗したことや、行うべきことを行わなかったことを鮮明に思い返して、それをもう一度行ってみる、そういう志が与えられて当たり前ではないでしょうか。主イエスの十字架の赦しの光のもとに立たされ、その主イエスに感謝をしながら、私たちはもう一度ここから自分のなすべき歩みへと送り出されてゆくのです。
主イエスは、光の子とされた者がそんな風に生きてゆくことを、9節で「そこで、わたしは言っておくが、不正にまみれた富で友達を作りなさい。そうしておけば、金がなくなったとき、あなたがたは永遠の住まいに迎え入れてもらえる」と教えられました。「不正にまみれた富」と言われているのは、「私たち自身の今日の命と人生」です。私たち自身の生活の中で、神の前に罪があり、不正を犯していることがあるからです。それでも私たちは、裁かれて滅ぼされてしまうのではなく、今日自分の宝を与えられ、自分自身の命を生きるようにされています。私たちに与えられているこの命が、私たちに今日与えられている富であり、それが不正にまみれていても、私たちに与えられているものなのです。
そして、「その与えられた命を用いて友達を作りなさい」と主イエスは勧めます。どうしてでしょうか。いざお金が無くなって人生が立ち行かなくなった時、そこで尚、あなたは永遠の住まいに迎えられるようになるからだと、主イエスはおっしゃるのです。まさに「金が無くなったとき」というのは、今日のたとえ話の直前に語られていた放蕩息子のたとえ話を思い出させるような言葉です。あの弟息子は父から離れて遠い国に旅立ち、そこで父から受け継いだ財産をすべて使い果たしてしまい無一文になります。今日の管理人で言えば、浪費して委ねられていた財産が無くなってしまう、放蕩息子と管理人は、そういう意味で重なっています。弟息子はその境遇で大いに苦しんだのですが、今日の箇所では、主イエスはそこで、「あなたに今日委ねられている富を、真の友を作るために用いなさい」とおっしゃるのです。弟息子は上辺の付き合いで表面的な友達しかできなかったために、友人を頼って支えてもらおうとしましたが上手くいかず、豚の世話をする、ユダヤ人としては考えられない境遇に陥りました。そうではなくて、本当の友を作るために働きなさいと、主イエスはおっしゃるのです。
今日、自分が生きている命と人生を、「不正にまみれた富」と言われることに対しては、反発する方もいらっしゃるだろうと思いますが、この言葉は11節にでも出て来ます。「だから、不正にまみれた富について忠実でなければ、だれがあなたがたに本当に価値あるものを任せるだろうか。また、他人のものについて忠実でなければ、だれがあなたがたのものを与えてくれるだろうか」と言われています。
「不正にまみれた富」とは、私たちが今日を生きている人生だと申し上げました。今日の命に忠実である、神の愛に忠実に生きているということが言い換えられて、12節では、「それは他人のものだ」とも言われています。今日、私たちが生きている人生の本当の持ち主はだれでしょうか。自分の命と人生は自分のものだと、つい私たちは言ってしまいがちなのですが、命を私たちに与えてくださっているのは神であって、私たちは神から貸し与えられた命を、今、生きているのではないでしょうか。
命を自分自身のものだと考える人は、限りある人生を自分の思いのままに振るまえる一つのステージのように考えて自己実現を図ろうとします。自分の思い通りに生きることができたら、それが本当に良いことなのだと思う人は多くいます。
けれども主イエスは、私たちの命と人生が本当は他人もの、すなわち、神のものであって、一時、神からお借りしているものなのだとおっしゃるのです。いずれは、この命と人生は神にお返しするものです。決算報告を出して、私たちは神のもとにこの命をお返ししなければなりません。その命を「あなたはどう生きるのか」と主イエスはお尋ねになります。自分自身のものであれば、好き勝手に生きれば良いということになるでしょう。しかし命と人生の本当の持ち主が神であるのなら、私たちは今日、この命を生きて、そして、いろいろなことができることを感謝しながら、喜んで、神のものとして生きるようになるのが本当の姿ではないでしょうか。
主イエスは、一人の管理人のたとえ話を弟子たちにしながら、「あなたの命と人生は、本当は神からお借りしている、お預かりしているものである」ことを教えようとなさいます。そして、神に感謝し、賛美して生きる生活を始めるようにと招いてくださいます。
終わりに「一人の僕は二人の主人に兼ね仕えることできない」と言われます。「あなたの命と人生は、一体誰のものであるのか。あなたが命を神からお預かりして生きるのであれば、神の御心に従って生きる、『わたしは神のものです』と言い表して生きるのが本当の姿ではないか」と問いかけます。
私たちは、自分に与えられている命と人生を、神を誉め讃えることに用いて歩みたいのです。そして、私たちの置かれているこの社会も私たちのものではなく神のものであり、教会の外には神を知らない人たちが沢山いますが、私たちはそういう社会にも忠実に仕えて生きるあり方を与えられたいと思うのです。
「他人のものについて忠実でなければ、だれがあなたがたのものを与えてくれるだろうか」と言われています。私たちは平らな思いで、私たちに与えられている「神が共に生きてくださる富」を手渡しながら、皆で神が与えてくださる恵みのお裾分けに与りながら生きてゆく、その時に、教会の中に新しい方たちが加えられてゆくのだろうと思います。私たちはそのように感謝して、今委ねられているものを精一杯に用いて生きる、そのような生き方を新たにされたいと願います。お祈りをささげましょう。 |