ただ今、ルカによる福音書10章17節から24節までを、ご一緒にお聞きしました。今日はこの箇所の前半である20節までを中心に聞きます。次週21節から24節までを改めて聞こうと思います。
さて、この前半部分に語られている事柄は、今日の私たちにとっては、何とも異様に思えるのではないでしょうか。主イエスがここでおっしゃっていることは、ひどく現実離れしていることではないでしょうか。悪霊が暗躍し、サタンが稲妻のように天から落ちるという御言葉を私たちはどう受け止めたら良いでしょうか。また、天にひとつの巻物が開かれていて、そこに地上に生きている者たちの名前が書き記されていると述べられるのですが、これも私たちはどのような事柄として受け取るのが良いのでしょうか。これらは本当に、私たちが実際に生きている地上の現実を指して語られているのでしょうか。それともここは、辛く困難に満ちているこの世界とは全く関わらない、幻想的な事柄が語られているのでしょうか。そのように受け取る人がいても止むを得ないと思える程、ここの主イエスの言葉は浮き世離れしている言葉のようにも聞こえるのです。
今日の私たちは、様々の科学技術や機械文明の発展の結果、いわゆる自然を人間の意志に従わせて生きるようになってきています。自然への畏怖や人間の力を越えた存在を畏れ敬うことよりも、現に自分の意識に上ってくるものだけを本当のものであると考えるようになってきています。自分の思うことや考えることこそが本当に存在するものなのだ、という考え方がいつの間にか芽生え育って、しっかりと私たちを捕らえているのです。
そして、そういう考え方にすっかり慣れっ子となっているために、古い時代の人々が語り伝えた天使だとか悪霊だとかサタンだとか、あるいは、そういう存在同士の間に交わされる戦いとかいうものは、ひどく現実味のない、空想の世界の出来事と感じるようになっています。物理的にも心理学的にも捉えることのできない隠れた霊力が存在するとか、またそういう勢力が私たち自身や世間の出来事に影響を与えるような考え方には、到底ついて行けないと思うようになっています。
しかし、だからといって、ここで主イエスがおっしゃっている悪霊やサタンやあるいは天使といった考え方が、そもそもはどこから生まれてきたのだろうと考えるような、いわゆる宗教史の問題に置き換えて事を済ませるような、呑気な考えで、ここを聞く訳には行きません。主イエスはもっと真剣な事柄を、ここで伝えようとしておられます。即ち、私たちはいかにして、サタンや悪霊の誘惑から身を守って、主イエスの側に居続けられるのか、また、御使いと呼ばれる者たちに、どんな風に保護してもらえるのか、そういうことを真剣に問題にしなくてはなりません。
そんな前置きをした上で、改めて、ここの記事に聞き入りたいのです。
17節18節には、主から遣わされて行った人々が主の許に戻って交わした会話が記されています。「七十二人は喜んで帰って来て、こう言った。『主よ、お名前を使うと、悪霊さえもわたしたちに屈服します。』イエスは言われた。『わたしは、サタンが稲妻のように天から落ちるのを見ていた』」。ここには、まるで悪霊たちやサタンという名前で語られる、この世の悪の勢力が、すっかり降参してしまったかのようなことが語り合われています。けれどもこれは、私たちが日頃暮らしている、ささやかな日常生活の実感とは合っていないようにも思えます。私たちが日頃感じるのは、むしろこの逆ではないでしょうか。この世の生活にあっては、天使の勢力よりも、悪の力の方がずっと強力であり、ずっと優勢であるように感じられるのではないでしょうか。
今日のところでは、主から遣わされた72人の弟子たちが、喜んで帰ってきています。では、私たちはどうでしょうか。私たちも1週間前に礼拝をささげ、その礼拝から1週間の生活に遣わされ、今、この礼拝に戻ってきています。私たちは果たして、72人のような喜びに満ちた報告を携えて、この場所にいるでしょうか。もしかすると正反対であるという方も、いらっしゃるのではないでしょうか。
即ち、私たちは、大きな嘆きと深い憂いをもって、今この場に座っているかも知れません。「主よ、あなたはわたしを一週間の生活に送り出してくださいました。その出て行った先で、わたしは、悪霊に服従してしまいました。あなたがわたしの生活の中においでくださることを待ち望んでいられませんでした。わたしには悪霊に立ち向かうだけの力はありませんでした。わたしは貪欲の霊に誘惑され、好色の霊の手先となり、憎しみの霊に心を毒されました。そのためにわたしは、正義も愛も行えませんでした。わたしは不安に取りつかれ、恐れにとらわれてしまっています。わたしは天使たちに捨てられ、悪霊の支配が、今の親しいわたしの友になっています」と、もしかしたらそんな思いを持ちながら、私たちは今日、この席に座っているかも知れません。おそらく主の御前にあって、私たちは、悲しみ、嘆きながら、そんな風に報告する他はないだろうと思うのです。
そして、私たちがそんな風に一巡りの歩みを主の前に報告する時、主イエスはどのようにお答えになるでしょうか。そのお答えは、72人が聞かされたのと同じく、まことに思いがけない御言になるのではないでしょうか。
今日のところで72人は、「主よ、お名前を使うと、悪霊さえもわたしたちに屈服します」と喜んで報告しています。すると、それに対して主イエスは、その72人の弟子たちの自信と誇らしさを傍らに押しやって、こうおっしゃるのです。「わたしは、サタンが稲妻のように天から落ちるのを見ていた」。主イエスは、「まさに、あなたがたの言うとおりだろう。わたしはサタンに、しばしの時を与えたのだから。これからも、蛇やサソリはあなた方を襲い、悪の勢力は尚も激しくあなたを打つかも知れない。しかし、そのようなことで恐れてはならない。むしろあなたがたは、自分の名が天に書き記され憶えられることを喜ぶがよい」と、そうおっしゃるのです。
主イエスは、地上の生活の中で、勝利を収めたり敗北したりすることよりも、いっそう、天にあなたの名前が書き記されていることをこそ喜ぶようにと教えられるのです。
天に名前が書き記されるとは、一体、どういうことでしょうか。私たちは何を思うのが良いでしょうか。聖書の中では、天の巻物、天にある書物ということでは、2通りのことが考えられているようです。ひとつは、私たち人間一人ひとりが行い、語り、考えた一切のことが記録されている「命の書」と呼ばれるものです。この命の書のことは、ヨハネの黙示録20章12節に語られています。この書物には、私たちの一生の行いや言葉や思いのすべてが記されていて、終わりの日に至るまで、その1ページも失われることがありません。
しかし、「命の書」ということでは、もう一つのことが考えられています。それは旧約聖書の詩編69編29節に出てきます。こちらの巻物にも、沢山の人の名前が書き記されています。しかし、こちらの巻物には、すべての人の名前が記されるのではなく、救いに与る者たちの名前だけが記されるのです。こちらの「命の書」というのは、別の言い方をするならば、私たちを憶えていてくださる神様の御心のことを言っているのです。そして、今日のところで主イエスが弟子たちに語っておられる天の書物も、この詩編で言われているような意味での「命の書」なのです。主イエスは、こういう意味で、「天に名前が書き記されていることをこそ喜びなさい」とおっしゃいます。
このところでは特に、「名が」書き記されていると言われている点に注目したいのです。名前というのは一人ひとりのその個人に与えられている、その人の命と人生のしるしです。天の書物にはそういう一人ひとりの個人の名前が記されるのです。この一人ひとりがその人として憶えられているという点が殊の外大切なのです。
というのも、悪霊が立ち働く領域では、個人の名は隠されてしまうからです。この福音書でも、少し前のところで、主イエスが悪霊と対決しておられた箇所がありました。ルカによる福音書の8章30節のところで、主イエスが悪霊に向かって名前をお尋ねになると、「レギオン」と答えていました。8章30節、「イエスが、『名は何というか』とお尋ねになると、『レギオン』と言った。たくさんの悪霊がこの男に入っていたからである」。悪霊は、名前を尋ねられた時に「レギオン」と答えます。これは、ローマの軍団を表す呼び名ですから、悪霊たちは、自分たちが「ひとつの軍団」であると答えたことになります。捕らえどころがなく、正体不明なところが悪霊の特徴です。匿名のままで、大衆を隠れ蓑に用いながら、悪霊は暗躍します。
しかし、神様の御前にあっては、一人ひとりの名が記されるのです。万物の創り主であられる方は、それぞれに違って造られたものが、その違ったままで様々なあり方をすることを喜んでくださいます。私たちについても、一人ひとりが皆違ったあり方をし、その人らしく考え行動し、生きていることをご存知で、そういう者たちを一人ひとり主イエスの十字架によって贖い、そして、その人らしく生きて行く人生を、神様のご計画の中に位置づけて、神様ご自身の目的に相応しくあるように扱ってくださるのです。
そして、そんな風に主イエスによって贖われ、主イエスご自身の御体の肢の一つとして主との交わりに入れられた人の名前が、天にある命の書の中に書き記されているのです。
私たちにとって、自分の名が、そのような「命の書」の中に書き記されているということは、ふつうには考えられないことです。何故、自分の名前が命の書に書きに記されたのかは、驚くべき神様の恵みの奇跡であるとしか言いようがありません。しかし主イエスは、神様が、あなた方一人ひとりをそのように扱っていてくださるのだから、あなたはそのことをこそ喜ぶべきだと教えてくださるのです。
そして、そういう「命の書」に名前を記されている者たちこそが、心からの主への信頼と素直な信仰と愛に生きることができるようになります。そういう人こそが、本当に悪霊に打ち勝つことができるのです。
美術館に行って、中世や近世のヨーロッパの絵画や彫刻を鑑賞しますと、その中に御使いたちの姿が描かれたり、刻まれたりしているのに出会う場合があります。絵や彫刻に描かれる御使いたちの多くは、ほとんどあどけない程の明るい顔をしています。激しい感情に駆られた我を忘れたようになっている御使いはいません。御使いたちは、太陽の周りをめぐり、その光に照らされる惑星のように、神様の御座の周りに朗らかな喜びと美しさに満たされた姿で描かれています。それは、彼らが常に、ただひたすら神様の方だけにその顔を向け、力を得ていることの表れです。
そして、自分の名が天に記されていることを素直に信じて喜ぶ信仰者もまた、この世にあって、神様から力を頂きます。蛇やサソリによる脅かしは確かにあるとしても、それは一時の見せかけのことでしかありません。神様から力を頂いて、主イエスの御名に依り頼んで生活する者たちこそが、混乱と痛みの多い今の世にあって、この世界を支え、先へ先へと持ち運んでゆきます。
居丈高に、ときの声をあげてこの世の悪を克服しようとする人々や、また、様々な人間的な計画によって、乱れたこの世に秩序をもたらそうする人たちは、今の世にも働く悪霊や悪の力によって、身心に傷を受けるようになります。
目立たないところで、静かにし、率直で幼な子のような素直さを持ち、落ちついて祈る人々には、神様を見るという約束が与えられています。
主イエスは私たちの間を見回し、そして幸いの教えを聞かせてくださいます。私たちは、たとえ激しい世の戦いの中に置かれるとしても、恵みによって名が天に記され、そして主が私たちの許を訪れてくださり、慰めと新たな勇気を与えてくださることを信じて歩む、幸いな者とされたいのです。お祈りをささげましょう。 |