聖書のみことば
2025年3月
  3月2日 3月9日 3月16日 3月23日 3月30日
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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■音声でお聞きになる方は

3月30日主日礼拝音声

 喜びにあふれる主
2025年3月第5主日礼拝 3月30日 
 
宍戸俊介牧師(文責/聴者)

聖書/ルカによる福音書 第10章21〜24節

<21節>そのとき、イエスは聖霊によって喜びにあふれて言われた。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。そうです、父よ、これは御心に適うことでした。<22節>すべてのことは、父からわたしに任せられています。父のほかに、子がどういう者であるかを知る者はなく、父がどういう方であるかを知る者は、子と、子が示そうと思う者のほかには、だれもいません。」<23節>それから、イエスは弟子たちの方を振り向いて、彼らだけに言われた。「あなたがたの見ているものを見る目は幸いだ。<24節>言っておくが、多くの預言者や王たちは、あなたがたが見ているものを見たかったが、見ることができず、あなたがたが聞いているものを聞きたかったが、聞けなかったのである。」

 ただ今、ルカによる福音書10章21節から24節までをご一緒にお聞きしました。21節に「そのとき、イエスは聖霊によって喜びにあふれて言われた。『天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。そうです、父よ、これは御心に適うことでした』」とあります。
 前回聞いた17節には、主イエスから遣わされた72人の弟子たちが大喜びしながら帰ってきた様子が語られていました。彼らは、主のお名前を使うと悪霊さえもが自分たちに屈服すると言って、首尾よく伝道の業が持ち運ばれたことを喜んでいました。これに対して今日のところでは、主イエスもまた非常に喜んでいらっしゃいます。ただ、その喜びは72人の弟子たちと同じではありません。弟子たちを遣わした伝道の業がうまく行ったというような、外に見える結果を喜んでおられるのではありません。主イエスの喜びは「聖霊によって」もたらされています。従ってこれは、まことに清らかな聖なる喜びです。神の御心深くに秘められている御計画の一端が実際にこの地上に行われていることを喜ぶ、深い喜びが、主イエスを包んでいます。人間の目に物事がうまく持ち運んでいることを喜ぶ喜びとは違って、たとえ事態の進展が思わしくないように見えるとしても、そのような仕方でも、なお神の御旨がこの地上に実現されているということを憶える喜びがあるということを、主イエスの喜ぶ姿からは示されるのです。

 主イエスは既にエルサレムに向かう決意を固めておられ、その郊外のゴルゴタの丘に立つ十字架をしっかり見据えて、旅路を一歩一歩進めておられます。御自身が十字架の道から逸れることなく歩んで行って、救い主メシアとしての御業をすべて果たし終えることは、主イエスにとっては十字架上に苦しんでお亡くなりになるということです。これは人間的に言えば、決して快いことでも嬉しいことでもありません。外見的にはむしろ辛く、うとましく思えるようなことです。しかしそれでも、それは確かに、神の御計画に沿った救いの御業なのです。
 後に復活の主がエマオへと向かうクレオパともう一人の弟子に言っておられます。ルカによる福音書24章25節26節に、「そこで、イエスは言われた。『ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか』」とあります。ここでよみがえりの主が「メシア」と呼んでいるのは、王や祭司や預言者として油を注がれた人間たちのことではなくて、救い主であるメシアのことです。そのメシアの働きは、「苦難を必ず経て、栄光に入るもの」と教えてくださっています。神が御心の内に抱いておられる御計画によれば、救い主は必ず苦難に遭うということを主イエスは教えられました。その激しく厳しい試練の中で、ひるんだり、気を散らして道から逸れてしまわないように、主イエスは顔をエルサレムに向け、堅く固定して道を進んで行かれます。聖霊も、そのような主イエスの歩みを励まし、神の救いの御業が確かに行われていることを分からせて、主イエスを喜びで満たしているのです。
 今日の箇所で言われている、「主イエスの聖霊による喜び」とは、たとえ地上での戦いが激しく厳しいものであっても、まさにそのような仕方で、神の救いの御業が果たされ、主の救いの御業によって人間が憐れみと慈しみとを受けて生きるようになることを知る喜びです。「神さまが私たち人間を憐れみ慈しんでくださる。そのことを知って、大いに慰められ、喜ばされ、また勇気をいただいて、銘々の人生を先に向かって進んでゆけるようにされる」、そういう喜びを、主イエスは今、憶えておられるのです。

 もし、置かれている状況に左右されることなく、聖霊に常に慰められ励ましていただいて喜んで生きる、そういう生活があるのだとしたら、私たちは是非とも、そういう生活に与りたいと思うのではないでしょうか。目に見える事情や置かれている状況によって一喜一憂するのではなくて、聖霊の働きによって常に励まされ、支えられるというのであれば、私たちは是非とも、そのような喜びを知る者になりたいと願うでしょう。ですが、そういう喜びは一体どのようにしたら得られるのでしょうか。そういう喜びに与るために、私たちは一体何をすれば良いのでしょうか。実際にそういう喜びに与っている主の言葉に耳を傾けたいのです。21節に「そのとき、イエスは聖霊によって喜びにあふれて言われた。『天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。そうです、父よ、これは御心に適うことでした』」とあります。主イエスは、神による救いの御計画がこの世の知恵ある者たちや賢い者たちには隠されてしまうと言っておられます。これは決して、神が意地悪をしておられるのではありません。ある種の人々には救いの計画を見せないようになさったということではありません。むしろ神は広く誰にでも、御自身の救いの計画を知らせてくださろうとしてくださいます。
 ただこの神の救いは、知恵ある者たちや賢い人々の知恵や賢さによっては理解できないものなのです。むしろ幼子たちのように、知らされたことを素直に受け取る人たちだけが、神が聞かせてくださった救いの御業をそのまま受け取って知ることができるようになります。ですから、聖霊が自分の上に働いてくださり、歩みを導き、支え、励まして持ち運んでくださることを知るのは、私たち人間の行いや努力や能力によることではありません。主イエスがここで憶えられた深い喜びは、御自身の救い主メシアとしての働きも含めて、神の救いの御計画が確かにこの地上に行われていることを確認する喜びでした。

 もちろんそうは言っても、地上の人間がすべて神の御前にひれ伏すようになったのではありません。主イエスのことを目障りだと考えて、陰謀によって主を捕らえ滅ぼしてしまおうとする勢力は、あちこちに潜んで目を光らせています。主イエスが今から進んで行かれる道は、非常に困難に満ちた道のりであり、そしてその地上の歩みの終わりには、十字架が待ち受けています。72人の弟子たちを伝道の働きに送り出した時に、主イエスは、「わたしがあなたがたを遣わすのは、狼の群の中に小羊を送りこむようなものだ」とおっしゃいましたが、それは72人の弟子たちの辿る道だけでなく、何よりも主イエス御自身に当てはまります。主イエスが最後まで道を歩み、十字架の上にささげられる小羊となられるために、激しい敵意と危険が待ち受ける道を辿って行かれるのです。それは沢山の狼が闇に紛れて道の両側に隠れているような険しい道のりを進んで行かれるようなことでした。しかも主イエスは、最後まで守られるのではありません。最後には、最も近しい12弟子の一人であるユダの裏切りによって敵に捕らえられ、そして、十字架に掛けられ処刑されてしまいます。主イエスは今、そういう道のりを、エルサレムに向かって、十字架を見据えて進もうとしておられるのです。
 もしも主イエスと同じ道を私たちが辿るようなことがあるとしたならば、いずれにせよ最後は敵の手に落ちて処刑されてしまうのかと思って、生きる元気も勇気も失ってしまうかも知れません。ところが主イエスは聖霊に励まされ、大いに喜びながら、この道を先へ先へと進んで行かれます。狼が隠れ伏して虎視眈眈と狙っている危険の中を、主イエスは喜んで進んで行かれます。どうしてでしょうか。

 それは、主イエスが神の独り子として神の御心を弁えておられ、またそういう主イエスのことを父なる神がよく分かっていてくださると知っていたからです。22節で、主イエスは、「すべてのことは、父からわたしに任せられています。父のほかに、子がどういう者であるかを知る者はなく、父がどういう方であるかを知る者は、子と、子が示そうと思う者のほかには、だれもいません」とおっしゃいます。
 今日の箇所で父なる神と主イエス御自身の間柄について主イエスがおっしゃっていることは、何だかヨハネによる福音書の言葉のようにも感じられると感想を言う人がいますけれども、まさにそのとおりだと言って良いでしょう。ヨハネによる福音書5章22節で、主イエスは言われます。「また、父はだれをも裁かず、裁きは一切子に任せておられる」。
 今日のところで主イエスは、「すべてのことは、父からわたしに任せられています」と言っておられますが、これは、父なる神がすべての人間の裁きを主イエスに委ねてくださっているということが含まれています。主イエスが人間の罪をどのように扱うか、十字架にどのように向かって行くかということについて、主イエスは「すべてを父から任せられている」とおっしゃっているのです。最終的には主イエスは、過越祭の直前に、御自身が人間の罪を負い、十字架にお掛かりになります。それによって、主を信じる人たちの罪は赦され、神の裁きが過ぎ越されてゆくのです。神の裁きの一切を委ねられている主イエスは、そういう仕方で、人間の罪の問題に向き合ってくださるのです。そのような御業を果たすために、権限と責任を主は与えられています。そしてその責任を果たすために、主イエス御自身は、エルサレムの十字架に向かって固く顔を据えられ、ひるむことなく、また、途中で邪魔されることのないように注意深く、道を進んで行かれます。
 そのようにエルサレムに向かっているのだということを、弟子たちは何度も主イエスから教えられたのですが、弟子たちは主イエスのこの言葉を決して受け止めようとしないで、遂に主イエスの有りようを理解することはありませんでした。主イエスの実際のありようを分かっておられるのは、天の父お一人だけだったのです。それで主イエスは、「父のほかに子がどういう者であるかを知る者はない」とおっしゃったのです。
 エルサレムには敵たちが主イエスを捕らえようとして手ぐすねを引いて待っており、また、弟子たちも何も理解できずにいるただ中を、主イエスはエルサレムの十字架を目指して進んで行かれます。人間的な言い方をすれば、主イエスの伝道の働き、救い主としての御業は決してうまく行っていないように見えます。人間は誰も主イエスの働きを理解せず、却って激しい反発や敵意の方が目につきますけれども、それでも主イエスは、間違いなくこういう仕方で神の救いが実現されてゆくことを知って、聖霊に励まされて大いに喜んでおられるのです。上辺の成功を喜んでいるのではありません。激しい敵意や戦いの中にあっても、確かに今、主イエスがエルサレムへと向かって行かれるこの歩みによって、人間の罪の赦しがもたらされ、罪を離れた新しい人間の歩みが生じるようになることを知って、主イエスは喜んでおられるのです。
 主イエスの十字架の御業によって、またそれを信じることによって、私たち人間の罪に赦しがもたらされるようになります。主イエスによって罪を肩代わりしていただき、十字架によってその罪を清算していただいた者たちには、赦されたしるしとして神との交わりが与えられるようになります。主イエスの救い主メシアの御業によって罪を赦されたからこそ、私たちは、神に向かって御名を呼んで祈ることができるようにされていますし、また御言葉を通し神の豊かな慈しみと憐れみに触れることができるようにもされているのです。

 主イエスは今、大変に険しい道のりのただ中を進んでおられながら、御自身のメシアとしての御業によって、新しく命を得られて生きる神の民が、もうじき実際にもたらされてくることを思って、大いに喜ばれました。そして、この主イエスの喜びは、御自身の十字架を土台として、その先に主の赦しを信じる教会が生まれてくることにつながってきます。
 ですから、主イエスが憶えておられる大きな喜びの中に、教会全体が包まれています。そして主の教会に属するキリスト者一人ひとりの中にも、この主イエスの喜びが分かち与えられるようになります。何故なら、主イエスの十字架による罪の赦しを信じる人は、そのことによって、恐ろしい裁きの神ではなくて、慈しみと憐れみに満ちた神に出会わされて、親しく神に向かって心を注ぎ出して祈り、また、慈しみをいただいて生活するようになるからです。

 主イエスはそのような幸いを23節と24節で、弟子たちの方に向き直ってお語りになりました。「それから、イエスは弟子たちの方を振り向いて、彼らだけに言われた。『あなたがたの見ているものを見る目は幸いだ。言っておくが、多くの預言者や王たちは、あなたがたが見ているものを見たかったが、見ることができず、あなたがたが聞いているものを聞きたかったが、聞けなかったのである』」。
 多くの預言者や王たちが、直にその目で見たいと願い、聞きたいと願ったが果たせなかったものとは何でしょうか。それは十字架の執り成しという確かな拠り所の上に成り立って、心から神を信頼して十字架の上を見上げ、また、赦しと導きの声を日々聴き取りながら歩む、そういう新しい信仰の生活です。
 神は優しい方であるはずだという、私たち自身の思い込みではなく、実際に主イエスが成し遂げてくださった救い主メシアの十字架によって罪が本当に清算され、それを信じて生きて良いと呼びかけられている新しい生活が、私たち各々の前に置かれています。私たちは自分の歩みが思うようにならなくても、あるいは私たちを攻撃する声がどんなに大きくても、「あなたの罪は赦されている。あなたはその赦しの中を、新しく生きて良いのだ」という呼びかけを聞かされて、主イエス・キリストによって果たされた救い主メシアの御業が本当であると思う幼な子のような思いを与えられ、信じて生きる幸いな者たちとされたいのです。お祈りをささげましょう。

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