聖書のみことば
2025年9月
  9月7日 9月14日 9月21日 9月28日  
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

「聖書のみことば一覧表」はこちら

■音声でお聞きになる方は

9月21日主日礼拝音声

 復活の主と出会う
2025年9月第3主日礼拝 9月21日 
 
宍戸尚子教師(文責/聴者)

聖書/マタイによる福音書 第28章1〜15節

<1節>さて、安息日が終わって、週の初めの日の明け方に、マグダラのマリアともう一人のマリアが、墓を見に行った。<2節>すると、大きな地震が起こった。主の天使が天から降って近寄り、石をわきへ転がし、その上に座ったのである。<3節>その姿は稲妻のように輝き、衣は雪のように白かった。<4節>番兵たちは、恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった。<5節>天使は婦人たちに言った。「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、<6節>あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。<7節>それから、急いで行って弟子たちにこう告げなさい。『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。』確かに、あなたがたに伝えました。」<8節>婦人たちは、恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った。<9節>すると、イエスが行く手に立っていて、「おはよう」と言われたので、婦人たちは近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏した。<10節>イエスは言われた。「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる。」<11節>婦人たちが行き着かないうちに、数人の番兵は都に帰り、この出来事をすべて祭司長たちに報告した。<12節>そこで、祭司長たちは長老たちと集まって相談し、兵士たちに多額の金を与えて、<13節>言った。「『弟子たちが夜中にやって来て、我々の寝ている間に死体を盗んで行った』と言いなさい。<14節>もしこのことが総督の耳に入っても、うまく総督を説得して、あなたがたには心配をかけないようにしよう。」<15節>兵士たちは金を受け取って、教えられたとおりにした。この話は、今日に至るまでユダヤ人の間に広まっている。

 ただいま、マタイによる福音書28章1節から15節をご一緒にお聞きしました。
 6節に「あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい」とあります。私たちはこの朝、天使の言葉を聞いています。天使が語りかけている言葉です。「あの方、主イエスはここにはおられない。なぜなら復活なさったからだ。父なる神御自身によってよみがえらされたからだ。父が御子をよみがえらせたのだ。さあ、あの方が横たわっておられた場所を見なさい。もうそこにはおられない。復活なさったのだ」。「十字架にかけられて死なれ、墓に葬られた神の子が復活なさった」、教会が宣べ伝えるこの知らせは、他のどこかの場所で聞くことができるでしょうか。確かに教会を離れたところで、主イエスのよみがえりについての話題を耳にすることはあるかもしれません。ただそれは、表面的な噂のようなものにすぎません。この天使の言葉が世界中すべての人に例外なく届けられる最大の希望の言葉であることを知って、それを信じ、それを伝えようとするのは教会だけです。教会だけが「あの方は復活なさった」、この言葉にすべてをかけることができます。教会はこのことを離れては成り立っていきません。そのことを表すために、この日曜日、主の日の朝に御復活を記念して礼拝をおささげしています。よみがえりを覚えて、その日に早朝礼拝や夕礼拝を、私たちはおささげしています。

 教会の基と言える天使の言葉は、どのような状況で語られたのでしょうか。この天使の言葉を最初に聞いたのは婦人たちだったと、マタイは記します。1節に「さて、安息日が終わって、週の初めの日の明け方に、マグダラのマリアともう一人のマリアが、墓を見に行った」とあります。マグダラのマリアともう1人のマリアは、27章61節にも登場しています。「マグダラのマリアともう1人のマリアはそこに座り、墓の方を向いて座っていた」。使徒と呼ばれた12人の弟子たちは逃げてしまっている中で、ユダヤ教の議会サンヘドリンの委員のアリマタヤのヨセフが登場しました。この人は十字架上で死なれた主イエスの御遺体を引き取って、綺麗な亜麻布に包んで、自分の墓、新しい墓に納めた人です。その一連の作業を2人のマリアは見ていました。墓の方を向いて座っていました。主イエスの御体が確かに墓に葬られ納められ、大きな石で閉じられたのを見ていたのでした。そして、週の初めの日の明け方、2人は墓を見にやってきます。十字架で死なれた主の墓を見るためです。主の死を見るため、主がもう生きておられないことを心に刻もうとするためだったかもしれません。
 主の死を自分の心に納得させ、主が生きておられないことをもう一度確かめようとしていた時、大きな地震が起こります。2人のマリアの思いを立ち切るかのように、地が揺れ動きます。2節に「すると、大きな地震が起こった。主の天使が天から降って近寄り、石をわきへ転がし、その上に座ったのである」とあります。大きな地震、それは天使がもたらしたものでした。主の天使が父なる神の許から降ってきます。そして墓に近寄り、墓を塞ぐ大きな石を転がします。さらにその石の上に座っています。
 主イエスの生涯に天使が関わる場面がいくつかあります。クリスマスの時もそうでした。主の天使が天から降ってこられ、マリアに、羊飼いに近寄って語りかけました。その他にも主イエスの御生涯の大事な時に天使が登場します。荒れ野の誘惑の時、伝道活動をお始めになるため悪魔の誘惑を受けられ、勝利された主イエスのもとに天使が来て仕えたとあります。またゲツセマネで血が滴るように汗を流して祈られる十字架の前の主を、天から現れた天使が力づけたとも記されます。そしてこの復活の場面にも天使が登場します。主の天使は父なる神から遣わされ、御業のために用いられ、御計画が行われるために仕えています。その天使がここにも現れて、御計画が、御旨が実現されるために重要な役割を果たしています。父なる神が御手を伸ばして御業を行おうとしておられます。
 天使は、主の納められた墓を塞ぐ大きな石を脇へ転がしました。主を死の世界に閉じ込めていた大きな石は退けられ、墓が開かれ、そしてその石の上には天使が座っています。まるで死の世界を抑え込んだ勝利者のように、墓を塞いでいた石、死の力は今や、天使の支配のもとにあるかのようです。つまり、天使を遣わした父なる神が死を抑え込み勝利しておられます。死の世界は主の天使によって、また主によって無力にされました。
 その天使の様子が3節に記されます。「その姿は稲妻のように輝き、衣は雪のように白かった」。「稲妻のように輝くお姿や雪のように白い衣」という表現は、旧約聖書ダニエル書で神御自身のお姿を描き出す言葉として使われています。そのため、ここに登場する天使の姿に、天よりの使いだけでなく神御自身のお姿を見る人もいます。ここには栄光と威厳に満ちて力を持って死を滅ぼされる神の世界が広がっています。

 一方、その神の世界を見せられて恐ろしさのあまり震え上がる人たちもいます。4節です。「番兵たちは、恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった」。番兵たちが墓を見張るために派遣されたことは、マタイだけが描いている内容です。そしてその番兵たちが死人のようになったと語られます。光り輝く天の使いの威厳を前にして恐れのために震え上がる彼らの姿。マタイは光の世界、命の世界が死の世界を震え上がらせ、飲み込み勝利する様子を対比するように描き出しています。そのことは、3節4節に「ように」という言葉が3回続けて使われることからも分かります。「主の天使は稲妻のように輝き、雪のように白い衣の姿をしている一方、番兵たちは死人のようになった」。稲妻のような輝きと雪のような白さを持って神の威厳に満ちている天使の姿と、死人のような姿の番兵たち。マタイはこの時起こった出来事が命と死の戦いであり、その戦いは、命が、神の世界が勝利を収めたのだと語ろうとしています。
 考えてみますと、ここに描かれる番兵たちの姿、死人のようになったと言われるその姿は、私たちの姿を示しているのかもしれません。「死を恐れ、死にまつわる様々なことを心配し、それによって死の力に捉えられてしまっている。望んでいないのにもかかわらず、死人のように死と親しいもののようになってしまう。死を前にして、無力感でいっぱいになる。死の力にあっけなく降参し、あるいは諦め、あるいは望みを失う」、それが私たちの姿であるのかもしれません。

 主の天使の姿と、その行動を震え上がって恐れた番兵たちがいる一方、女性たちはどうだったのでしょうか。彼女たちも恐れてはいたようです。8節に「婦人たちは恐れながら」とあるからです。ただ番兵たちと婦人たちの大きな違いは、彼女たちがこの後、天使の語りかける言葉を聞いたことです。そして、その言葉を信じて従ったことです。天使は言いました。「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ」。「恐れることはない」、元の言葉は「あなたがたは恐れるな」となっています。「恐れてはならない。恐れる必要はない。なぜなら」と続いています。なぜ恐れなくて良いのか、理由は2つあります。
 まず1つは、「あなたがたが十字架につけられたイエスを探し求めていることを、わたしは知っている。だから恐れなくて良い」。女性たちは主イエスの納められた墓を見にやってきました。何のためにでしょうか。マルコとルカの福音書が香料を買って主の御体に油を塗るためだったと説明していますが、マタイは女性たちにそのような目的があったかどうかを明らかにしていません。ここに登場する2人も含め、女性たちはそれぞれ主を慕う思いについては間違いなく持っていたと思われます。「わたしはあなたたちのその思いを知っている。主イエスを慕い、主イエスを探していることを知っている」と天使は言います。「だから安心して良い。恐れなくて良い」。神から遣わされた天使が、そしておそらく天の父なる神は、女性たちの悲しみ、嘆き、不安、主を慕う思いを知っていてくださる。「だから大丈夫。恐れなくて良い」。主イエスの死に直面して動揺していた、また悲しんでいたであろう女性たちのことを分かってくださっている存在がいる。女性たちはその言葉に、自分たちが1人で孤独に生きているのではないことを知ります。
 そして、そのお方は時を越えて、今の私たちのことも、私たちのすべてを知っていてくださっている、聖書はそう語りかけています。そして私たちにも彼女たちと同様に「恐れることはない」と語ってくださっています。
 恐れなくて良い2つ目の理由は、「主イエスがよみがえられて、もうこの墓にはおられないから」です。「だから、恐れなくて良い」。死んでしまった主を見るために、主の死を納得するためにやってきた女性たちでした。けれども彼女たちは空の墓を見ることになります。「さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい」と、天使は命じます。主イエスの死の御体を見るのではなく、「主がここにはおられないこと、よみがえられたことを見なさい」と言われています。ここには「かねて言われていた通り、復活なさったのだと」とあり、よみがえりの出来事は、主がかねて言われていたことだった説明されます。主イエスが何度も予言しておられた、「十字架にかけられ3日後に復活する、その通り復活なさった。この場所、御遺体の横たえられていた場所を見なさい。神の御心によって御子はよみがえらされた。神の御心がここに完全に成就している。神の御計画通り、御子は死に勝利され、よみがえられた。さあ、見なさい。空の墓を。あの方はもはや墓に閉じ込められているのではなく、死の世界に押し込められているのでもなく、よみがえりの命の主となられたのだから」。

 それでは、よみがえられた主はどこに行かれたのでしょうか。今どこにおられるのでしょうか。天使は話を続けます。7節です。「それから、急いで行って弟子たちにこう告げなさい。『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。』確かに、あなたがたに伝えました」。マグダラのマリアともう1人のマリア。2人は天使から主のよみがえりを告げられた後、さらにそれを弟子たちに伝える者となるようにと命じられています。ここには、「彼の弟子たちに」と、弟子たちが主イエスの弟子であることが、ことさらに強調されています。弟子たちは、今は姿を隠しています。十字架にお掛かりになった主を見捨てる形で主を知らないと言ってしまい、散り散りになっています。「けれども、彼らも主の弟子なのだ。その弟子たち、主に従って行くことができなかった弟子たちに告げなさい。『あなたの先生、主なる方は死者の中から復活された。そしてあなたより先に、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。そこでお会いできる。主はあなたたちをガリラヤでお待ちになっている。ガリラヤへ行くように。そこでもう一度、よみがえられた主にお会いするのだ』」。主から離れてしまった弟子たちは、それでもなお呼びかけられ、「あなたはわたしの弟子だ。ガリラヤへ」と語りかけられています。
 ガリラヤは弟子たちにとっての故郷であり、主イエスに招かれて弟子とされた始まりの土地でした。そこから主の伝道活動は開始されて、福音が宣べ伝え始められました。「弟子たちが最初の出発をしたガリラヤ、そこへ行くように」、天使たちは女性たちにそう伝えさせようとしています。「確かにあなたがたに伝えました」。女性たちにも、そして天使の話を伝え聞くことになる弟子たちにも新しい始まりの時がもたらされています。
 彼らはこの時まで、主の十字架と葬りの中、その先の将来が何も見えない中を過ごしていました。これからどうするのか、自分で自分のことが分かりませんでした。けれども天使は、そういう彼らに希望を与えます。「よみがえられた主があなたがたを待っている。行きなさい、ガリラヤへ。あなたがたはもう一度、新しく始めるのだ」。誰かが自分を待っている、自分に会おうと期待を持って希望を持って準備してくれている、それはとても嬉しいことだと思います。弟子たちを待つと言われたのは、彼らの主、神の子メシアでした。しかもその方は御心のままによみがえらされ、死に勝利されたお方です。よみがえられたお方として彼らを待っていてくださる、ガリラヤで会おうと言ってくださる、このことが私たちの日曜日ごとの礼拝においても起こっています。復活の主が墓の中におられるのではなく、始まりの地ガリラヤでお待ちくださり、あなたがたもそこに来るようにと招いてくださいます。
 私たちの日常は、どうしても死の大きな力に引っ張られて、不安を抱え、神との間に、隣人との間に和らぎを持つことができず、罪の力に囚われています。私たちの目は、死の世界、墓の方に向いていて、そこで希望を見出すことができないでいます。けれども、その私たちに主の日ごとの礼拝が備えられています。「あの方は死者の中から復活された。そしてあなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる」。主の日の礼拝ごとによみがえられた主イエス・キリストとお目にかかることを許されている、主の日の礼拝ごとによみがえりの主が私たちに向かって「待っている」と語りかけてくださっている、そのことを思い起こしたいと思います。

 女性たちは天使の言葉を聞いたとき、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行ったと語られます。救い主の誕生を知らされた羊飼いたちが「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」と急いで出かけて行った出来事のようです。あの時の羊飼いたちも、主の天使から「恐れるな」と呼びかけられていました。「なぜなら、神全体に与えられる大きな喜び、あなたがたのための救い主がお生まれになったからだ」。今回もそうです。「救い主があなたがたと共に生きてくださる。主イエスがあなたと共におられる。だから恐れなくて良い」。女性たちは確かに恐れていました。けれども同時に、天使の言葉を聞いて大いに喜んでもいます。そしてこの知らせを弟子たちに急いで知らせようと走っていきます。
 女性たちのこの姿に伝道者の姿を見ることができます。墓を見つめ、死の世界だけを見つめていた人たちが、よみがえりの主が生きておられると聞かされ、それを信じ、その主のことを伝えようと走っていきます。恐れながらも大いに喜んで急いでいます。他のところでは決して語られない、神の子イエス・キリストの十字架とよみがえりの福音、他のどこでも聞いたことのないこの知らせを携えて伝えて走っていく、まさに伝道者の姿です。
 そしてまた、これはキリスト者の姿でもあります。主のよみがえりの知らせを聞いて、それを携えて伝えようと走っていくのは、キリスト者一人ひとりの姿であり、また教会の姿です。私たち自身はそんなに早く走れないかもしれません。けれども、喜びつつ心は急いでいます。福音に生かされながら福音を伝えようともしています。私たちの群れの姿を、この女性たちの姿は示していると思います。

 女性たちが走っていると、よみがえられた主はおいでになったと9節に記されます。「すると、イエスが行く手に立っていて、『おはよう』と言われたので、婦人たちは近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏した」。よみがえられた主が女性たちの行く手に立っていて出迎えます。「見よ、主イエスは彼女たちを出迎えた」と記されています。そして「おはよう」とおっしゃいました。口語訳聖書では「平安あれ」、文語の聖書では「やすかれ」となっています。一方、「おはよう、平安あれ」と訳される言葉は、「喜ぶ」という言葉の動詞で、「喜べ」と直訳して「喜びなさい。喜べ」と主が言われたと訳す人もいます。いずれにしても、よみがえられた主は女性たちに挨拶をしてくださり、喜びの時を与えてくださいました。女性たちは主の足を抱きしめ、その前にひれ伏したとあります。「ひれ伏す」というのは、「礼拝すること」を表しています。よみがえられた主が神その方であることを知って、彼女たちは主イエスを礼拝したのでした。「主が復活され、今も生きておられる」、この信仰によって礼拝がささげられます。私たちも主の足にすがりつくようにして、主の御言葉を与えられ、礼拝をおささげします。ここでも女性たちの姿は、私たちの礼拝の姿を示しています。

 主イエスはさらに語りかけます。10節に「イエスは言われた。『恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる』」とあります。天使が彼女たちに伝えた同じ言葉を、主も語られます。「恐れることはない。恐れるな。あなたがたは恐れなくて良い。行け、わたしの兄弟たちに告げよ」となっています。ここで弟子たちは、「わたしの兄弟たち」と、主から呼びかけられています。天使は、つまずき裏切った弟子たちを、なお主イエスの弟子と呼んでいました。けれどもここでは、主イエス御自身が彼らを「わたしの兄弟たち」と呼んでくださっています。「あなたたちはわたしの兄弟だ」。主イエスを裏切り、信仰において挫折し、弟子となることができなくなっている人たちでした。けれども、その弟子たちを主イエスは赦して、「わたしの兄弟」と呼んでくださっています。
 主は、欠けのある、罪の中を歩む私たちにも、「わたしの兄弟たちよ」と呼びかけてくださっています。私たちの罪をすべて負って十字架におかかりになり、贖いの御業を成し遂げてくださった主が、よみがえられて、私たちを兄弟と呼んでくださり、父なる神のもとに集めてくださっています。私たちは、「神の子、主イエスの兄弟」とされることによって、「神の家族」とされました。よみがえりの主は私たちに神の家族となる幸いも与えてくださいました。
 エフェソの信徒への手紙2章14節から22節に、このことが記されています。2章14節「実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し」、16節「十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました」、19節「従って、あなたがたはもはや、外国人でも寄留者でもなく、聖なる民に属する者、神の家族であり、使徒や預言者という土台の上に建てられています。そのかなめ石はキリスト・イエス御自身であり、キリストにおいて、この建物全体は組み合わされて成長し、主における聖なる神殿となります。キリストにおいて、あなたがたも共に建てられ、霊の働きによって神の住まいとなるのです」。イエス・キリストをかなめ石とする神の家族、それが私たちの群れです。よみがえられた主が私たちの罪を赦して、新しい命を与え、兄弟と呼んで集めてくださり、1つの家族、主にある家族としてくださっているからです。

 さて、11節から15節までに記されたエピソードは、27章62節から66節の内容とつながっています。27章の終わりのところでは、祭司長たちとファリサイ派の人々が、弟子たちが主イエスの御遺体を盗み出して「復活した」と言い広めること、それによって人々が惑わされることを恐れていました。それで彼らは墓に番兵を置き、墓石に封印します。ところが番兵たちは、主の天使が地震を起こし、主イエスがよみがえられた出来事に出遭います。番兵たちが天使の様子に恐れて死人のようになったとき、何を見、何を聞き、どうやってエルサレムの都に戻ったのかは記されていません。けれども、とにかく彼らはこの出来事をすべて祭司長たちに報告したのでした。つまり自分たちは墓の番をしていたが、今その墓は空であり、納められていた遺体はもはやないということです。これを受けて、祭司長たちは長老たちと集まって相談し、兵士たちに多額の金を与え、そして命じます。「『弟子たちが遺体を盗んで行った』と言いなさい」。「兵士たちは金を受け取って、教えられた通りにした」。ここには、よみがえりの真実を知る機会を与えられながら、それを否定し続け嘘を作り出して言いふらしていく、そのことに躍起になる人々の姿を見ることができます。けれども、このような裏工作を持ってしても、主イエスのよみがえりの事実は曲げられることはありませんでした。そればかりか、この出来事が世界を変えることになりました。

 最初の教会はこういう中で主イエスの復活のメッセージを伝えていったことが分かります。けれども、これは今の時代も同じことです。復活に対する疑いと不信の心は、世界中に広まっています。そして私たち自身の中にも、こうした疑いの心が同じように存在しています。
 けれども私たちは、主のよみがえりがなかったなら、教会の歴史はなかったことも知っています。パウロは「キリストが復活しなかったのなら、あなたがたの信仰は虚しく、あなたがたは今もなお罪の中にいることになります。しかし、実にキリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました」と言います。
 教会の礼拝で語り続けられてきたことは、「あなたがたはもう、墓を見つめて泣かなくても良い」ということです。「罪を見つめて、泣かなくても良い。死はもはや、すべてのものの最終的な支配者ではないのだから。罪が私たちの支配者ではないのだから」。主イエス・キリストにおける神の恵みが死の力を打ち破り、新しい命、永遠の命への道を開いてくださいました。その中で悲しみ苦しんでいる私たちに、よみがえって今も生きておられる方が、「わたしの兄弟」と呼びかけてくださいます。神の子とされ兄弟姉妹方と一緒に歩むことができます。「喜んで生きていって良い」と、主の日ごとの礼拝において語りかけられています。女性たちのように身近な人たちに、また悲しみ、苦しみの中に、孤独の中にいる方たちに、主の御復活の喜びを伝えるために、軽やかに走るようにして過ごしたいと願います。お祈りしましょう。

このページのトップへ 愛宕町教会トップページへ