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2025年9月 |
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| 9月7日 | 9月14日 | 9月21日 | 9月28日 | |||
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。 *聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。 |
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| 「アッバ、父よ」との呼び声 | 2025年9月第4主日礼拝 9月28日 |
宍戸 達教師(文責/聴者) |
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聖書/ローマの信徒への手紙 第8章1〜17節 |
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<1節>従って、今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません。<2節>キリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則が、罪と死との法則からあなたを解放したからです。<3節>肉の弱さのために律法がなしえなかったことを、神はしてくださったのです。つまり、罪を取り除くために御子を罪深い肉と同じ姿でこの世に送り、その肉において罪を罪として処断されたのです。<4節>それは、肉ではなく霊に従って歩むわたしたちの内に、律法の要求が満たされるためでした。<5節>肉に従って歩む者は、肉に属することを考え、霊に従って歩む者は、霊に属することを考えます。<6節>肉の思いは死であり、霊の思いは命と平和であります。<7節>なぜなら、肉の思いに従う者は、神に敵対しており、神の律法に従っていないからです。従いえないのです。<8節>肉の支配下にある者は、神に喜ばれるはずがありません。<9節>神の霊があなたがたの内に宿っているかぎり、あなたがたは、肉ではなく霊の支配下にいます。キリストの霊を持たない者は、キリストに属していません。<10節>キリストがあなたがたの内におられるならば、体は罪によって死んでいても、“霊”は義によって命となっています。<11節>もし、イエスを死者の中から復活させた方の霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリストを死者の中から復活させた方は、あなたがたの内に宿っているその霊によって、あなたがたの死ぬはずの体をも生かしてくださるでしょう。<12節>それで、兄弟たち、わたしたちには一つの義務がありますが、それは、肉に従って生きなければならないという、肉に対する義務ではありません。<13節>肉に従って生きるなら、あなたがたは死にます。しかし、霊によって体の仕業を絶つならば、あなたがたは生きます。<14節>神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。<15節>あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、「アッバ、父よ」と呼ぶのです。<16節>この霊こそは、わたしたちが神の子供であることを、わたしたちの霊と一緒になって証ししてくださいます。<17節>もし子供であれば、相続人でもあります。神の相続人、しかもキリストと共同の相続人です。キリストと共に苦しむなら、共にその栄光をも受けるからです。 |
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ただいま、ローマの信徒への手紙8章の初めから17節まで読んでいただきました。ここには15節に1つの呼び声が記されていて、それがここでの頂点となっています。「アッバ、父よ」という呼び声です。ここには「アッバ、父よ」と書かれていますが、「アッバ」というのは、それだけで「御父よ」とか、あるいは「お父さま」という意味の呼びかけの言葉です。主イエスも地上におられる間、しばしば「アッバ」という言葉を使われました。ゲツセマネの園で、死を目前にした最後の祈りの時にもそうでした。 ところで、そうであるのなら、ここに1つの問題が起こってくるのではないでしょうか。そのように十字架のイエス・キリストによって罪を贖われ、それまでの罪をすっかり清められ、それこそ今生まれたばかりの乳飲み子のようなキリスト者は、それから先はどうなっていくのでしょうか、ということです。ともかく、これまで過去に犯された罪は皆、十字架の贖いによって拭い去られました。今は罪を赦された清らかな者として、キリスト者は立たされています。けれどもキリスト者は、これから先も地上で生きて行かなくてはなりません。そのようであるのなら、もしかしたらキリスト者は、これからの先、再び新しい罪を重ねていくようになるのではないでしょうか。それなら、これから先の新しい罪は一体どういうことになるのでしょうか。 けれども問題は、一体そのようなことが果たして本当にあるのだろうかということです。そんなことが本当に起こるのなら、一体それはどんなふうにして生じるのでしょうか。しかし、そのことを考える前にもう一つ、パウロの言っている別の言葉を合わせて聞いて覚えておきたいのです。13節に「肉に従って生きるなら、あなたがたは死にます。しかし、霊によって体の仕業を絶つならば、あなたがたは生きます」とあります。これは、体に宿っている罪に向かって、まさにメスを突きつけるというような戦いのことを言っています。罪の根が私たちの内から全く根絶やしされるというのではありません。しかし、その根から育ち上がってきたものに対し、私たちは戦いを挑み、勝利を期待して良いということなのです。それはちょうど、一面に雑草に覆われた畑に決まりをつけるようなものです。雑草の根を1本残らずすべて根こそぎに取り去るのは難しいのです。しかし農夫であれば、それで諦めはしません。自分にできる限りの努力をして、その雑草の伸びを防ごうとするでしょう。根気よく手順を踏んで前に進んで行くことによって、次第に根は根絶されて行きます。それと同じように、キリスト者は体の仕業を断つのです。 聖霊の働きとして、パウロはここに2つのことを教えています。まず1つは16節です。「この霊こそは、わたしたちが神の子供であることを、わたしたちの霊と一緒になって証ししてくださいます」。キリスト者であっても、しばしば狭い偏屈な思いが湧いて来ることがあります。自分たちがイエス・キリストによって贖われて罪赦され、そして清い者とされているなどということは、これは単に私たちがそのように考えているだけのことではないでしょうか。私たちの思い過ごしに過ぎないのではないでしょうか。聖なる神に向かって「アッバ、父よ」とお呼びする資格など、本当は私たちにはないのではないでしょうか。私たちが神を「アッバ、父よ」とお呼びできると、神の聖なる家族の一員であるなどと、一体誰が保証してくれるのでしょうか。それはただ、私たちが自分で思い込めば良いのでしょうか。しかし私たちは、とても自分をそのように考えることができません。それなら、誰か身近にいる人がそう語ってくれるのでしょうか、パウロが言うのです。16節に「この霊こそは、わたしたちが神の子供であることを、わたしたちの霊と一緒になって証ししてくださいます」とあります。私たちがイエス・キリストによって贖われており、私たちが他の聖徒たちと一緒に神の家族なのだということを保証してくださるのは、御霊こそ、それなのだというのです。御霊が働いて、私たちが神の子たちであることをまず証ししてくださるのです。 そして次に、御霊の働きとしてもう一つのことが述べられます。それは14節です。「神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです」。御霊が私たちに働きかけて、私たちを神の子らしくしてくださるのです。御霊は導く霊であり、事柄を推し進める力を持っています。宇宙にロケットを飛ばすときには、ことに強力な推進力を持つ燃料が用意されなくてはなりません。決定的な瞬間に、強力な推進力のある火薬や燃料がなかったために、立派なロケット本体を与えられながらそれを使うことができず、他国に遅れを取ってしまうということも起こります。私たちの中に宿る聖霊は、私たちにとっての推進剤なのです。聖霊は、私たちを具体的に、日毎日毎に導いて行かれます。パウロはこのことをこの8章で繰り返し教えます。それは、11節などもそうです。 このように、御霊によって私たちが神の子らとしての立場を与えられており、また御霊が私たちを実際に導き生かしていてくださるので、キリスト者はもはや罪を犯すことができず、却って肉の業を殺し、義に生きるようになるのです。私たちが緊張してそうなるというのではありません。自分で自分を抑制してそうなるとか、発作的にそうなるとかいうのではなく、そうではなくて、私たちの内に宿る聖霊がそうさせてくださるのです。自動車を運転する人は、自分が車を押したり担いだりするのではありません。自分自身は忠実に一つところに座り、注意していればよく、動くのは車それ自体が動いてくれるのです。 |
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