ただ今、ルカによる福音書11章29節から32節までを、ご一緒にお聞きしました。
29節に「群衆の数がますます増えてきたので、イエスは話し始められた。『今の時代の者たちはよこしまだ。しるしを欲しがるが、ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない」とあります。「群衆の数がますます増えてきた」と始まっています。主イエスの評判が大きくなっていたことが分かります。ところが主御自身はこのことをお喜びになりませんでした。主イエスは集まってきた人たちの心の中の思いを見抜いていて、この大勢の群衆が何を求めてやって来ているかを御存知だったからです。
少し前のことですが、主イエスは口を利けなくする悪霊にとりつかれていた人と辛抱強く関わり、この人を癒されて、口を利けるようにしてあげたことがありました。その結果を見た群衆は勿論のこと大変に驚いたのでしたが、そんな中に、特に際立った反応を見せた人たちがいました。この人たちは二通りの反応を示したのですが、第1のグループは、この出来事を見ても、その状況を悲観的にとらえて、このたびの出来事は悪霊の頭であるベルゼブルによって引き起こされた出来事にちがいないと考えました。即ち、「口が利けなかった哀れな男は、上辺の様子では喋れるようになって、ちょっと変わったようだけれども、その実際は依然として悪霊の頭の支配の下に置かれていて何も変わってはいない。もっと強力でもっと悪い霊に捕らえられてしまっているのかもしれず、事態はむしろ深刻さを増している」と考えました。こういう人々に対して主イエスは、ここに生じた出来事は神の指の業であり、神御自身が口の利けずにいた人を捕らえ、がんじがらめに縛っていた悪霊と対決して、わだかまりや思い煩いを一つひとつ丁寧に根気よく解いてくださった結果であることを教えておられました。しかしもう一つのグループがあって、こちらの人々は口の利けずにいた人を捕らえ縛りつけていた事態をとても軽く考えていて、こういうことは神ではなく人間にもできると考えたのでした。そしてこういう人たちは、「多くの群衆はこのことで大変驚いたようだけれども、もし主イエスが主張するとおり、この出来事が神御自身によって引き起こされた神の出来事であるのならば、更にもっと驚くようなもっと大きな出来事を見せて欲しい。それを見たならば信じることもあるだろう」と言って、主イエスに「天からのしるしを見せて欲しい」とせがんだのでした。
主イエスの許に押し寄せてきた大勢の群衆はそのように、主イエスが不思議な癒しや奇跡をなさり、それを目撃できることを期待して、主の許に集まって来たのです。主イエスはそんな群衆の心の中を御覧になり、おっしゃいました。「今の時代の者たちはよこしまだ。しるしを欲しがるが、ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない」。「今の時代の者たちはよこしまだ」と主イエスはおっしゃいます。
この「よこしま」という言葉に注意して考えてみたいのです。主イエスがおっしゃる「よこしまである」とは、どういうことなのでしょうか。日本語で「よこしま」と言う時、これを漢字で書き表すと、邪悪という言葉の「邪」という字を書いて一文字で「よこしま」と読みます。辞書でこの文字を引くと、「心がねじけている、不正である」という意味だと説明されます。主イエスがおっしゃった元々の言葉でこの「よこしま」と訳されている文字を探しますと、今日の箇所だけでなく前後に同じことをおっしゃっている箇所があります。まず前の箇所の11章26節には、主イエスによって追放された汚れた霊が自分よりも悪い他の七つの霊を引き連れて舞い戻って来ると言われていました。この「より悪い七つの霊」と訳されている言葉が、原文では「よこしま」という言葉で書かれています。ですから、「より悪い七つの霊」は、そっくり置き換えて訳すならば、「よりよこしまな七つの霊がその人の中に舞い戻って住み着くようになる」と言われているのです。主イエスは「よこしま」という言葉で、まずは「人間がひどく悪霊の働きに捉われてしまって、手も足も出でない状態」のことをおっしゃっているのです。
ところで、この「よこしま」という言葉を主イエスはもう一回、この先の箇所でも口になさいます。34節で、「あなたの体のともし火は目である。目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが、濁っていれば、体も暗い」とおっしゃっています。これは言うならば、私たちの目が体の中に光を採り込む窓のようなもので、「目が澄んでいれば、あなた自身も明るく明朗に生活できるけれども、もしもその窓である目が濁ってしまう場合には、あなたの中から光が失われることになる」という警告の言葉です。何も考えず聞きますと、主イエスは視覚に障害を持っている人たちについて、何とも厳しい、酷いことを言っているように聞いてしまいがちな箇所なのですが、実は主イエスはここで肉の眼のことをおっしゃっているのではありません。「目が濁っている」と訳されているところの原文を読みますと、主イエスは、「目がよこしまである」とおっしゃっているのです。「あなたがたの目がよこしまである時には、当然あなたの前に行われていて、あなたがそのことを認めて受け入れたり受け止めたりできるはずのことが、まったくあなたの中に入って来なくなってしまう」と言われます。
今日の箇所で主イエスがおっしゃっている「今の時代の者たちはよこしまだ」という言葉は、直前の箇所で「人間がひどく悪霊の働きに捕らえられてしまっている」という状態と、そんな風に悪霊に捉われてしまった結果、「目の前で主イエスがせっかく神の指による癒しを行い、口を利けなくされた人を率直に口を開くことができる者へと導いてくださったのに、それを素直に認めることができなくなっている」という状態の両方を指しています。
天からのしるしを求め、もっと多くの驚くようなしるしを見せて欲しいと願って続々と主イエスの許に集まって来た人たちは、主イエスが病んでいる人や困っている人たちを癒して役に立ってくださるのを見ても、それが神の指の業で、神が働いてくださった結果だとは受け止めないのです。「そこにあなたがたのよこしまさがある」と主イエスはおっしゃいました。ですから、今日の箇所で「よこしま」と言われているのは、神の御業が実際にこの地上において行われているのに、そのことを一向に認めようとしない人間たちの頑ななあり方のことなのです。
人間の頑なさ、よこしまさに対して向けられた、こういう主イエスの厳しい言葉を聖書から聞かされる時、私たちは自分自身の信仰生活のありようを振り返って考えることができるかも知れません。たとえば、私たちが毎週この場所に集まって、神の御前に整列し、賛美をうたい、祈りをささげることができるのは、神の憐れみと慈しみに満ちた恵みのなさりようの直接の結果ではないでしょうか。神が私たちを招いてくださり、ここで聖書の説き明かしを通して親しく御言を語りかけてくださり、私たちを慈しんで慰めの言葉をかけてくださるからこそ、私たちは力と勇気を与えられ、喜んで教会の礼拝にやって来ることができるのです。
仮にこの場所にやって来ても、御言が語られることなく、人間の考えや世の処世術ばかりが語られ、私たちが神との交わりを見失ってしまうならば、教会生活は何とも空しく、辛い、苦行を行っているように感じられてしまうかもしれせん。そうならずに、喜び、感謝して教会の礼拝にやって来ることができるとすれば、それは、この礼拝の中で神が力をもって私たちを招き、そしてここから歩むようにと、私たちを遣わしてくださる御業が実際にここで起こっているからに他ならないのです。
ところが私たちは、時に、そのように神が力をもって私たちを招き持ち運んでくださっていることを忘れ、礼拝をささげ信仰生活を生きることを、まるで自分たちの努力や情熱によることであるかのように思い違えてしまう場合があるのです。自分たちがどんなに熱心に教会の集会に集まり、どれだけ多くの人が参加しているかというような人間の行いや数字の方につい思いが向いてしまい、神がここで御業をなさり、私たちに力を与えてくださり、神に支えられている僕にふさわしく生活するために招かれるという、肝心なことの方をつい忘れてしまったりするのです。礼拝に集う人間の数やその他の集会に集う人間の数ばかりが気になってしまうようなあり方は、考えてみますと、もっと多くの奇跡を見たい、もっと多くの不思議や天からのしるしを見たいと言っていることと、どこかつながってはいないでしょうか。
勿論、教会は、ここにやって来る人間のサロンや社交の場ではなくて、神が招き集めてくださる群であり、そしてその神は私たちに「すべての民」を弟子として御自身の件に連れて来るようにと命じておられますから、私たちは、今いる者たちのこの人数で満足すれば良いという訳ではありません。教会は常に、私たちの間に更に多くの兄弟姉妹たちが招かれても良いように、新しい人々が座ることのできる座席を確保できるように心掛けなくてはなりません。けれどもそのことは、私たちが人数を気にしたり、若い人が多いか年輩者が多いかを気にするのではなくて、神の御業が確かに私たちの間で行われ、私たちが今日、実際に神が備えてくださり持ち運んでくださっている銘々の人生へと遣わされてゆくという、神の導きと慈しみに思いを向けて生活する中でこそ、成り立ち育ってゆく生活であることを憶えたいのです。
私たちは教会にやって来る度に、聖書の御言を通して神の慈しみに満ちた招きと支えのあることを、繰り返し知らされます。そのことを信じて生きていくようにと招かれます。丁度南の国の女王がソロモンから知恵の言葉を聞かせてほしいと願い、イスラエルに来て、神の保護と導きを知らされ喜んで帰って行ったように、またニネべの人たちがヨナの説教を聞いて悔い改め、神の御前に新しく生きる者とされたように、私たちもこの教会の礼拝の中で、御言を通して神の御心に触れ、今実際に神に憶えられ救われた者となって生活を始める、そういう営みが一人ひとりに与えられているのです。
そのために神が一つのしるしをお与えくださるのだと、今日の箇所で主イエスはおっしゃいました。それがヨナのしるしです。「ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない。つまり、ヨナがニネベの人々に対してしるしとなったように、人の子も今の時代の者たちに対してしるしとなる」と、主イエスは言われました。
ニネベの人々に対して与えられたしるしとは、他ならないヨナ自身でした。ヨナがニネベの町角に立って、「悔い改めなければ、40日後にこの町は滅びる」と説教していた、まさにその姿がニネベの人たちに与えられた神の救いのしるしでした。ニネベの人たちはその姿に触れまたその説教を聞くことで悔い改めることができ、滅びから救い出されたのでした。
ニネベの人々に対してヨナが救いをもたらすしるしとなったように、今の時代の人々に対しては、人の子、つまり主イエス御自身が救いのためのしるしになるのだと、主はおっしゃいます。そして、このしるし以外にはしるしは与えられないともおっしゃいます。主イエス御自身だけが、頑なで神の御業をなかなか信じて受け容れることのできない今の時代の者たちのためのしるしなのです。
けれども主イエスが、「今の時代、ここに生きている者たち、神の御業が分からない者」のための救いのしるしになるとは、どういうことでしょうか。ニネベの人たちにとっては、自分たちに語りかけてくれたヨナが彼らと神を結ぶ悔い改めに至らせてくれたしるしでした。しかし、このヨナは急にニネベに姿を現した訳ではありません。ニネベの人たちにとっては、ヨナがある日忽然と現れたかのように感じられたかもしれませんが、神の側では、ヨナをニネベの人たちへのしるしとして遣わすに当たって、大きな魚を備えられ、その魚にヨナを呑み込ませて三日三晩魚の内に置いて、それからニネベの岸辺に吐き出させました。ニネベの人々がヨナの姿に出会うことができたのは、神のそういう御計画があり、そして、その御計画通りにヨナを遣わしてくださったからなのです。元々ヨナはニネベに行きたくありませんでしたが、仕方なく放り出された海に神が魚を備えてくださり、それでヨナはニネベに連れて行かれました。
それならば、主イエスが今の時代の者たちにとって神の愛と救いを表すしるしとなるために、やはり神の側の御計画があったということになるのではないでしょうか。まさにその通りなのです。ヨナが魚の腹の中に保護されながら三日三晩を死の水の中に過ごしたように、主イエスもまた十字架の死から三日目に復活なさるまでの間、死と陰府の深みの中で過ごされました。
主イエスが今の時代の者たちのための救いのしるしとなって私たちの前に現れてくださったのは、突然そうなったのではなくて、神の側での御計画に従って主イエスが従順に行動してくださったからなのです。即ち、主イエスはエルサレムまで歩んで行かれ、ゴルゴタの丘で十字架に掛けられお亡くなりになり、その苦しみと死をもって、私たち人間の神に対し背を向け平気で神抜きで生きこの上なく神に対して無礼に振舞っている罪のすべてを清算してくださったのです。そういう救いの御業を実際に果たしてくださった方として、主イエスは私たちの前に立っていてくださり、神による救いを信じ、神の愛と慈しみを信じて生きる者となるように招いてくださるのです。
人の子である主イエスは、そういう救いのしるしとなる方、救い主メシアとして歩まれました。まさに今日の箇所のこの時、主イエスはこの御業のためにエルサレムに向かっておられましたし、今この礼拝においては、主イエスは救い主メシアとして、私たちに向かって十字架と復活を指さしながら、「神さまに信頼して生きるように」と私たちを招いてくださっているのです。主イエスの十字架の御業によって罪が清算されていることを信じる以外に、私たちが自分で自分の罪を軽くしたり、無くしたりすることはできません。ですから、主イエスのしるしがただ一つのヨナのしるしだと言われるのです。私たちを救い、神の御心に新しく生きる生活へと導くただ一つのしるしは、主イエス・キリストが確かに私たちのために十字架に掛かり、よみがえられ、私たちに今語りかけてくださっているということです。
全世界の教会が、この主イエスの救いに感謝するからこそ、建物の上や建物の中に十字架を掲げています。そうであるならば、私たちもここから遣わされて歩んでゆく、それぞれの生活の中に、主イエスの救いによって今日の命を生かされていることを知る者として、十字架のしるしを掲げて歩む者たちとされたいと願います。「主イエスがわたしのために御業をなさり、今日の命を与えてくださっている。主イエスを信じ、神さまの愛と慈しみを信じて日々を過ごしていきます」と、そのように、私たちもそれぞれに十字架を掲げて歩んでいきたいと願います。お祈りを捧げましょう。 |