聖書のみことば
2025年6月
  6月1日 6月8日 6月15日 6月22日 6月29日
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

「聖書のみことば一覧表」はこちら

■音声でお聞きになる方は

6月22日主日礼拝音声

 知識の鍵
2025年6月第4主日礼拝 6月22日 
 
宍戸俊介牧師(文責/聴者)

聖書/ルカによる福音書 第11章45〜54節

<45節>そこで、律法の専門家の一人が、「先生、そんなことをおっしゃれば、わたしたちをも侮辱することになります」と言った。<46節>イエスは言われた。「あなたたち律法の専門家も不幸だ。人には背負いきれない重荷を負わせながら、自分では指一本もその重荷に触れようとしないからだ。<47節>あなたたちは不幸だ。自分の先祖が殺した預言者たちの墓を建てているからだ。<48節>こうして、あなたたちは先祖の仕業の証人となり、それに賛成している。先祖は殺し、あなたたちは墓を建てているからである。<49節>だから、神の知恵もこう言っている。『わたしは預言者や使徒たちを遣わすが、人々はその中のある者を殺し、ある者を迫害する。』<50節>こうして、天地創造の時から流されたすべての預言者の血について、今の時代の者たちが責任を問われることになる。<51節>それは、アベルの血から、祭壇と聖所の間で殺されたゼカルヤの血にまで及ぶ。そうだ。言っておくが、今の時代の者たちはその責任を問われる。<52節>あなたたち律法の専門家は不幸だ。知識の鍵を取り上げ、自分が入らないばかりか、入ろうとする人々をも妨げてきたからだ。」<53節>イエスがそこを出て行かれると、律法学者やファリサイ派の人々は激しい敵意を抱き、いろいろの問題でイエスに質問を浴びせ始め、<54節>何か言葉じりをとらえようとねらっていた。

 ただ今、ルカによる福音書1章45節から54節をご一緒にお聞きしました。
 45節に「そこで、律法の専門家の一人が、『先生、そんなことをおっしゃれば、わたしたちをも侮辱することになります』と言った」とあります。律法学者は「そんなことをおっしゃれば、わたしたちをも侮辱することになる」と言ったのですが、主イエスは一体どんなことをおっしゃったのでしょうか。
 この時主イエスは、あるファリサイ派の人からの招待を受けて、食事の交わりの席に着いておられました。ルカによる福音書では食卓の交わりの場面が多く記されます。それだけ、この福音書を書き著したルカが食事の交わりを大事に考えて書き漏らさないように注意深く筆を運んでいたのですが、それはルカの考えというよりも、主イエス御自身が食卓の交わりを大切に考えておられることを、ルカが知っていたからなのです。
 主イエスは食卓の交わりを、やがて神に皆が招かれて、神の御前で全員が勢揃いして一緒に食事を頂く喜びの時を表すものだとお考えでした。教会の愛餐会も、そのような神の御前に開かれている喜びの食事の時を思い描きながら、それに似たことを地上で行っているようなところがあります。
 ところが、主イエスが招かれて実際にお着きになった当時の食卓では、いつもその席で、いかにも人間臭い破れを見聞きするようなことが起こっていました。徴税人のレビが弟子に招かれたことを喜んで、彼の家に主イエスをはじめ大勢の知人や友人を招いて宴会を催した時には、ファリサイ派の人たちや律法学者たちがこれに不平を述べました。「なぜ、あなたたちは、徴税人や罪人などと一緒に飲んだり食べたりするのか」と言って、その食事会を腐したのでした。主イエスはそれに対して、「医者を必要とするのは健康な人ではなく、病人である」とお答えになって、様々に病んでいる人や生き悩む人々、罪人たちも、主イエスによって神の民の一人に加えられ、食卓の交わりに与ることができることを教えてくださいました。あるいは、ファリサイ派シモンの家の客となって食卓にお着きになった時には、一人の不幸な女性の罪をその食事の場で赦してあげました。そして、その女性も神の民に加えられていることを宣言してくださいました。ところがそこに同席していた複数の人たちは、その様子を見て「罪を赦すなどと言い出すこの人物は一体何者だろう」と心の中で不審がっていたということが起こっていました。
 主イエス御自身は食事の席にお着きになる時、いつもその場に集う人間たちの罪を御覧になり、そして、御自身が罪を赦す権威を持っておられる方として、感謝して食事の交わりを共にしてくださいます。ところが、そういう主イエスを理解せず、人を裁いてしまいがちなファリサイ派の人たちのあり方に、主イエスは心を痛めておられました。それで、杯や皿の外側を立派にして見せるのではなくて、その人自身の内面こそが清められなくてはならないことを、今日招かれた食卓において教えられたのでした。

 その主イエスの言葉に刺激されて反応したのが、今日の箇所の律法の専門家の言葉でした。この人は主イエスの言葉によって大変に侮辱されたと感じたのでした。それは、主イエスが本当のことをおっしゃったからです。上辺をどんなに綺麗そうに見せていても、その内面に潜んでいるものは強欲と悪意に他ならないと、主イエスはおっしゃいました。人間は、隠しておきたい本当の自分の姿に触れられてしまうと、落ち着きを失い、攻勢的になったり余計な一言をつい口走ってしまうようなことがあります。この律法の専門家も、そんな風になってしまったものと思われます。
 しかしその結果、彼は主イエスから、更に3つほどのことを聞かされることになりました。最初は46節です。「イエスは言われた。『あなたたち律法の専門家も不幸だ。人には背負いきれない重荷を負わせながら、自分では指一本もその重荷に触れようとしないからだ』」とあります。主イエスが「重荷を負わせる」と言っておられるのは、当時の律法学者たちの律法の解釈のことを指しています。律法学者たちは旧約聖書の中に記されている神の御言を、神から贈られている愛のこもった救いの招きとして聞くのではなくて、自分たちの日頃の生活に対する指図として聞こうとしました。自分たちが何をやってどんな風に生きなければならないかの掟が記されているのだと考えて、それを一つ一つ数え上げて、全部を守らなくてはならないと人々に教えていました。そういう掟が613もあったのだと言われています。
 しかし、613ものやるべき掟、あるいはやってはいけない掟というのは、普通の人にはとても覚えきれない数です。律法学者たちは、それを守らなくてはならないと人々に教えながら、しかし人々がとても覚えきれないため、知らず知らずに掟に触れるようなあり方をしてしまうことについては何も助けようとしません。そんな律法学者たちのあり方を、主イエスは厳しく御覧になりました。「人に背負いきれない重荷を負わせながら、自分では指一本もその重荷に触れようとしない」とおっしゃったのは、まさしく律法学者たちの律法に向かう姿勢を非難して、こうおっしゃったのです。
 また613もの掟というのは、律法学者本人にとっても、その全部をいつも覚えていて気を配ることができない程の膨大なものでした。彼らは、他の人については「律法に触れるあり方をしている」と非難していながら、自分自身は、たとえば宴会の席に呼ばれると我先にと上座に着きたがったり、あるいは律法を大事にしていることを見せびらかすために衣服の房をわざと大きくして見せたりするというような、見栄っ張りなあり方をしていました。そんな風に、他人に教える事柄と、実際の自分自身のありようが一致していない点も含めて、主イエスは「他人には大きな重荷を背負わせておいて、自分ではその重荷のために指一本動かそうとしないありようをしている」と言って、律法学者たちを非難なさったのでした。

 二番目に主イエスがおっしゃったことは、律法学者たちが旧約聖書の律法と並んで預言者たちの言葉も大切なことだと人々に吹聴していながら、実際には預言者たちの教えを無視したり、その教えに逆らうようなありようをしているということです。主イエスはこのことを、「あなたたちは預言者たちの墓を建てている」という印象的な言葉で指摘なさいました。47節48節に「あなたたちは不幸だ。自分の先祖が殺した預言者たちの墓を建てているからだ。こうして、あなたたちは先祖の仕業の証人となり、それに賛成している。先祖は殺し、あなたたちは墓を建てているからである」とあります。「預言者たちの墓」という言葉は別な言葉に翻訳すると、「預言者たちの記念碑」と訳すこともできる言葉です。当時の葬りは土葬ですから、亡くなった人の体を穴を掘って収め、その上や、横に収めた場合には入り口のところに石を置いて目印にしました。亡くなってすぐに造られるのは墓ですが、先祖が殺した預言者であれば、それは墓ではなくて、預言者が活動した足跡を憶えたりその活動が立派だったと顕彰する記念碑を建てるということになります。しかし、ここで主イエスが言っておられることは、石で記念碑を建てているということではありません。主イエスは、律法学者たちが口では預言者の教えが大事であると人々に教えながら、彼ら自身は預言者たちの教えを軽んじたり無視したりしていることを、こう言っておられるのです。墓や記念碑を建てるように、口先では預言者のことを敬って奉っているけれども、実際には預言者たちの語った事柄を自分たちの生活の中から抹殺して顧みようとしないあり方を、「あなたたちは墓を建てているに過ぎない」という言葉でおっしゃるのです。

 神の知恵の言葉として、主イエスはおっしゃいます。49節に「だから、神の知恵もこう言っている。『わたしは預言者や使徒たちを遣わすが、人々はその中のある者を殺し、ある者を迫害する』」とあります。預言者たちを敬うあり方として大切なことは、亡くなった預言者たちを懐かしく思い起こして、その足跡を顕彰し褒め称えることではありません。預言者たちの口を通して語られたのが神の言葉であるのならば、語った人を褒め称えるのではなくて、語られているその御言葉自体に聞き従うことこそ重要です。ところが、律法学者たちにとって預言者の言葉は、そのようには受け止められていないのです。「預言者たちのある者は殺され、ある者は迫害される」と主イエスはおっしゃいます。上辺だけを飾って立派そうに見せている律法学者たちの心の中に何があるかを、主イエスは見抜いておられるのです。
 後に主イエスは、この福書書の20章9節以下で、ぶどう園を横取りできると考えて主人の跡取り息子を殺してしまう不埒な農夫たちの譬え話をなさいました。この譬え話を通して語られているのは、まさに神から遣わされた預言者や使徒たちを迫害して死に至らせる、そういう人間のあり方であり、まさに主イエスもその中の一人として律法学者たちの手に落ちて十字架にはりつけにされ、亡くなっていかれるのです。

 人が人を殺す最初の殺人事件は、聖書の中では創世記4章に出てきます。カインとアベルの兄弟の兄カインが弟アベルを殺す話です。主イエスはこの最初の殺人事件から、主イエスの時代のつい先頃に起きたエルサルム神殿の中で大祭司ゼカルヤが無念にも殺されてしまった事件までを引き合いに出して、律法学者たちが上辺だけの偽善を行っているに過ぎないことを、ここで明るみに出してみせます。律法学者たちが心の中にどんなに凶暴なものを隠しているかということを明るみに出しているのです。「今の時代のあなたたちは、たとえどんなに上辺を取り繕って善良そうに見せかけるとしても、あなた自身の生きる人生の責任を問われることになるのだ」とおっしゃいました。50節51節に「こうして、天地創造の時から流されたすべての預言者の血について、今の時代の者たちが責任を問われることになる。それは、アベルの血から、祭壇と聖所の間で殺されたゼカルヤの血にまで及ぶ。そうだ。言っておくが、今の時代の者たちはその責任を問われる」と言われているとおりです。

 主イエスのおっしゃる「今の時代の者たち」というのは、2000年前に生きていた人たちという意味ではありません。この言葉は、今日この言葉を聞いている私たちにも語りかけられているのではないでしょうか。もし私たちが聖書の言葉を、神からの愛に満ちた、何とかして愚かで頑なな人間を救おうと語りかけてくださる招きの言葉として聞くのではなく、これを生活の掟や自分の暮らしのモットーのように受け取ってしまうならば、その時には、今を生きている私たちもまた、律法学者たちと同じく、自分の生きた人生の責任を問われることになるだろうと思います。主イエスがここで律法学者に語っておられる言葉は、私たちにも語りかけられているのです。
 私たちは、生まれた日から今日まで、それぞれに生活をし、人生を歩んで来ています。その歩んで来た過去には、成功だけでなく、数多くの失敗も刻まれています。人を殺してはいないかもしれませんが、しかし言葉や行いによって多くの人を傷つけ、悲しませてきたに違いありません。そしてそういう自分の人生について、なるべくなら人生の棚卸しをして、迷惑をかけたり傷を負わせた相手にお詫びの思いを伝え、取り返しがつくことであれば埋め合わせをしたいと願うのです。けれども、私たちの人生に起きた失敗は、常に取り返しがつくとは限りません。もはや取り返せないことだってありますし、そもそも私たちが失敗をしてもその失敗にまったく気がついていないということもあります。そんな風に、自分がどのように生きて来たかという責任は、もしも私たちが自分一人だけの孤独なままに人生を生きてしまうならば、最後には死の苦しみをもって自分で清算をつける他なくなってしまいます。
 私たちがどれほど、神を畏れ善良に生きたいという素振りを見せながら生きるとしても、もしも私たちの罪を御自身の身に引き受けてくださり、十字架によってすべての罪を清算してくださる方が「あなたと共に生きよう。わたしに従って来なさい」とおっしゃってくださらないなら、この方と出会いこの方に招かれることが無いならば、私たちの人生は、どなたの人生であっても、究極的には惨めなものになってしまわざるを得ません。

 主イエスは最後に、この律法学者に、大変重要なことをおっしゃいました。52節に「あなたたち律法の専門家は不幸だ。知識の鍵を取り上げ、自分が入らないばかりか、入ろうとする人々をも妨げてきたからだ」とあります。ここに述べられている「知識の鍵」と言われているのは、もう少し丁寧な言い方をするならば、「神の御計画によって行われている救いの御業を知る知識」のことであり、「その知識の鍵となる方」のことを言っています。
 もし私たちが自分独りだけで人生を生き、自分の人生は自分が主人であって自分だけのものだと思って生きてしまうならば、どんなに善良そうに見せかけるとしても、また物質的にどんなに幸福に暮らせるとしても、究極のところでは惨めなものとなってしまうのが、私たち人間の人生です。しかしそこに、神が何とかして救いをもたらそうとして、十字架による罪の贖いの御業を行ってくださいました。その知識を知らせ、「あなたの罪は赦され、清算されている。あなたはもうすでに清められ者とされているのだから、それに相応しい生き方をここから歩んで行くように」と呼びかけてくださるのです。主イエス・キリストが御自身の十字架を指差しながら、復活の命を今、現に生きておられる方として、私たちに呼びかけてくださっているのです。「あなたは決して、あなた一人だけで滅んでいくのではない。わたしがあなたの罪を清算して、あなたといつも共にいる。あなたは罪から離れ、様々な嫌な思いから離れて、新しい思いをもって生きなさい」と呼びかけてくださるのです。

 ところが律法学者たちは、何よりも肝心な、その主イエスによる救いの御業を認めようとしません。救いの知識の鍵となる主イエスを取り上げ、投げ捨て、自分たちの行いの正しさや立派さばかりを言い募ろうとします。それは、せっかく神が与えようとしてくださる救いに自分が入れないばかりか、入ろうとする人々をも妨げてしまうあり方なのです。
 思えば、大変険しく感じられる、この主イエスと律法学者とのやり取りは、ある家での食事の交わりの時に交わされていました。そして、その食卓の交わりについてこれまでのことを思い出してみると、例えば主イエスが徴税人のレビを招き、レビが大いに喜んで仲間たちを呼び、集まって食事を共にしていたとき、律法学者やファリサイ派の人たちは、「なぜ、あなたたちは徴税人や罪人たちと一緒に飲んだり食べたりするのか」と言って、不平を述べていました。「この者たちは絶対に救いに入れるわけがない。そういう者たちと交わっているあなたはおかしい」と、律法学者は主イエスに言い立てました。まさしく人間の罪を赦して、神との交わりの中に人を導こうとしておられる主イエスの御業を腐して、「この人々は罪人なのだから、交わりの中に入る資格はない」とばかりに、レビたちを神の救いから締め出すようなことをしていました。
 また、ファリサイ人シモンの家で、不幸な女性の罪を主イエスが赦してくださった時には、「罪まで赦すこの人は、一体何者か」と心の中でつぶやいていました。この女性が主イエスによって罪を赦され清められ、救われることなどあり得ない、律法に照らしてこの女性は決して赦されることはないと思っているのです。
 律法学者のあり方は、救いへの鍵である方を認めようとしないために、自分自身もこの方による救いに入ることがありませんし、また、この方によって他の人が救いに入れられることも腐して、救われない方向に人々を導こうとするのです。主イエスは、そのような彼らの姿を御覧になっていて、何とも残念な、不幸なことだとおっしゃったのでした。

 今日のこの箇所を聞いていながら、私たちは自分自身のありようを考えてもよいのではないでしょうか。私たちは自分自身の本当の姿を誤魔化さずに直視するならば、一人の例外もなく、最終的には責任を問われ滅ぼされてしまっても文句を言うことができないようなあり方をして生活しています。けれども神は、そういう惨めさから私たちを救い出そうとして、主イエス・キリストを送ってくださいました。主イエス・キリストの十字架の出来事によって、私たちの惨めな罪を神の側に引き取ってくださって、私たちは処罰される代わりに、神の慈しみに満ちた温かな光の下を生きていくようにされています。神は、その救いの鍵となるお方、主イエス・キリストを私たちに与えてくださったのです。
 私たちはこの方の十字架の御業を見上げ、よみがえりの命に生きているこの方の御言を聞いて、慰められ勇気を与えられて生きるようにされているのです。

 主イエスは今日の箇所で、律法学者に3度「あなたがたは不幸だ」とおっしゃいました。けれども、主イエスがそうおっしゃる時には、その不幸の中にその人を追放してしまおうと思っておられるのではありません。むしろその逆です。「わたしを信じなさい。わたしがあなたと共に歩んで、あなたの罪の失敗をすべてわたしの側に引き受けてあげよう。わたしがあなたの身代わりになって十字架にかかるから、あなたは罪から離された者として、今日ここから生きなさい」と、主イエスは招いてくださいます。
 その主の御業と救いを信じる信仰を与えられて、私たちは今日ここから再び、不幸ではない幸いな者とされて歩んでゆきたいと願います。お祈りを捧げましょう。

このページのトップへ 愛宕町教会トップページへ