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2025年6月 |
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毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。 *聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。 |
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知識の鍵 | 2025年6月第4主日礼拝 6月22日 |
宍戸俊介牧師(文責/聴者) |
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聖書/ルカによる福音書 第11章45〜54節 |
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<45節>そこで、律法の専門家の一人が、「先生、そんなことをおっしゃれば、わたしたちをも侮辱することになります」と言った。<46節>イエスは言われた。「あなたたち律法の専門家も不幸だ。人には背負いきれない重荷を負わせながら、自分では指一本もその重荷に触れようとしないからだ。<47節>あなたたちは不幸だ。自分の先祖が殺した預言者たちの墓を建てているからだ。<48節>こうして、あなたたちは先祖の仕業の証人となり、それに賛成している。先祖は殺し、あなたたちは墓を建てているからである。<49節>だから、神の知恵もこう言っている。『わたしは預言者や使徒たちを遣わすが、人々はその中のある者を殺し、ある者を迫害する。』<50節>こうして、天地創造の時から流されたすべての預言者の血について、今の時代の者たちが責任を問われることになる。<51節>それは、アベルの血から、祭壇と聖所の間で殺されたゼカルヤの血にまで及ぶ。そうだ。言っておくが、今の時代の者たちはその責任を問われる。<52節>あなたたち律法の専門家は不幸だ。知識の鍵を取り上げ、自分が入らないばかりか、入ろうとする人々をも妨げてきたからだ。」<53節>イエスがそこを出て行かれると、律法学者やファリサイ派の人々は激しい敵意を抱き、いろいろの問題でイエスに質問を浴びせ始め、<54節>何か言葉じりをとらえようとねらっていた。 |
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ただ今、ルカによる福音書1章45節から54節をご一緒にお聞きしました。 その主イエスの言葉に刺激されて反応したのが、今日の箇所の律法の専門家の言葉でした。この人は主イエスの言葉によって大変に侮辱されたと感じたのでした。それは、主イエスが本当のことをおっしゃったからです。上辺をどんなに綺麗そうに見せていても、その内面に潜んでいるものは強欲と悪意に他ならないと、主イエスはおっしゃいました。人間は、隠しておきたい本当の自分の姿に触れられてしまうと、落ち着きを失い、攻勢的になったり余計な一言をつい口走ってしまうようなことがあります。この律法の専門家も、そんな風になってしまったものと思われます。 二番目に主イエスがおっしゃったことは、律法学者たちが旧約聖書の律法と並んで預言者たちの言葉も大切なことだと人々に吹聴していながら、実際には預言者たちの教えを無視したり、その教えに逆らうようなありようをしているということです。主イエスはこのことを、「あなたたちは預言者たちの墓を建てている」という印象的な言葉で指摘なさいました。47節48節に「あなたたちは不幸だ。自分の先祖が殺した預言者たちの墓を建てているからだ。こうして、あなたたちは先祖の仕業の証人となり、それに賛成している。先祖は殺し、あなたたちは墓を建てているからである」とあります。「預言者たちの墓」という言葉は別な言葉に翻訳すると、「預言者たちの記念碑」と訳すこともできる言葉です。当時の葬りは土葬ですから、亡くなった人の体を穴を掘って収め、その上や、横に収めた場合には入り口のところに石を置いて目印にしました。亡くなってすぐに造られるのは墓ですが、先祖が殺した預言者であれば、それは墓ではなくて、預言者が活動した足跡を憶えたりその活動が立派だったと顕彰する記念碑を建てるということになります。しかし、ここで主イエスが言っておられることは、石で記念碑を建てているということではありません。主イエスは、律法学者たちが口では預言者の教えが大事であると人々に教えながら、彼ら自身は預言者たちの教えを軽んじたり無視したりしていることを、こう言っておられるのです。墓や記念碑を建てるように、口先では預言者のことを敬って奉っているけれども、実際には預言者たちの語った事柄を自分たちの生活の中から抹殺して顧みようとしないあり方を、「あなたたちは墓を建てているに過ぎない」という言葉でおっしゃるのです。 神の知恵の言葉として、主イエスはおっしゃいます。49節に「だから、神の知恵もこう言っている。『わたしは預言者や使徒たちを遣わすが、人々はその中のある者を殺し、ある者を迫害する』」とあります。預言者たちを敬うあり方として大切なことは、亡くなった預言者たちを懐かしく思い起こして、その足跡を顕彰し褒め称えることではありません。預言者たちの口を通して語られたのが神の言葉であるのならば、語った人を褒め称えるのではなくて、語られているその御言葉自体に聞き従うことこそ重要です。ところが、律法学者たちにとって預言者の言葉は、そのようには受け止められていないのです。「預言者たちのある者は殺され、ある者は迫害される」と主イエスはおっしゃいます。上辺だけを飾って立派そうに見せている律法学者たちの心の中に何があるかを、主イエスは見抜いておられるのです。 人が人を殺す最初の殺人事件は、聖書の中では創世記4章に出てきます。カインとアベルの兄弟の兄カインが弟アベルを殺す話です。主イエスはこの最初の殺人事件から、主イエスの時代のつい先頃に起きたエルサルム神殿の中で大祭司ゼカルヤが無念にも殺されてしまった事件までを引き合いに出して、律法学者たちが上辺だけの偽善を行っているに過ぎないことを、ここで明るみに出してみせます。律法学者たちが心の中にどんなに凶暴なものを隠しているかということを明るみに出しているのです。「今の時代のあなたたちは、たとえどんなに上辺を取り繕って善良そうに見せかけるとしても、あなた自身の生きる人生の責任を問われることになるのだ」とおっしゃいました。50節51節に「こうして、天地創造の時から流されたすべての預言者の血について、今の時代の者たちが責任を問われることになる。それは、アベルの血から、祭壇と聖所の間で殺されたゼカルヤの血にまで及ぶ。そうだ。言っておくが、今の時代の者たちはその責任を問われる」と言われているとおりです。 主イエスのおっしゃる「今の時代の者たち」というのは、2000年前に生きていた人たちという意味ではありません。この言葉は、今日この言葉を聞いている私たちにも語りかけられているのではないでしょうか。もし私たちが聖書の言葉を、神からの愛に満ちた、何とかして愚かで頑なな人間を救おうと語りかけてくださる招きの言葉として聞くのではなく、これを生活の掟や自分の暮らしのモットーのように受け取ってしまうならば、その時には、今を生きている私たちもまた、律法学者たちと同じく、自分の生きた人生の責任を問われることになるだろうと思います。主イエスがここで律法学者に語っておられる言葉は、私たちにも語りかけられているのです。 主イエスは最後に、この律法学者に、大変重要なことをおっしゃいました。52節に「あなたたち律法の専門家は不幸だ。知識の鍵を取り上げ、自分が入らないばかりか、入ろうとする人々をも妨げてきたからだ」とあります。ここに述べられている「知識の鍵」と言われているのは、もう少し丁寧な言い方をするならば、「神の御計画によって行われている救いの御業を知る知識」のことであり、「その知識の鍵となる方」のことを言っています。 ところが律法学者たちは、何よりも肝心な、その主イエスによる救いの御業を認めようとしません。救いの知識の鍵となる主イエスを取り上げ、投げ捨て、自分たちの行いの正しさや立派さばかりを言い募ろうとします。それは、せっかく神が与えようとしてくださる救いに自分が入れないばかりか、入ろうとする人々をも妨げてしまうあり方なのです。 今日のこの箇所を聞いていながら、私たちは自分自身のありようを考えてもよいのではないでしょうか。私たちは自分自身の本当の姿を誤魔化さずに直視するならば、一人の例外もなく、最終的には責任を問われ滅ぼされてしまっても文句を言うことができないようなあり方をして生活しています。けれども神は、そういう惨めさから私たちを救い出そうとして、主イエス・キリストを送ってくださいました。主イエス・キリストの十字架の出来事によって、私たちの惨めな罪を神の側に引き取ってくださって、私たちは処罰される代わりに、神の慈しみに満ちた温かな光の下を生きていくようにされています。神は、その救いの鍵となるお方、主イエス・キリストを私たちに与えてくださったのです。 主イエスは今日の箇所で、律法学者に3度「あなたがたは不幸だ」とおっしゃいました。けれども、主イエスがそうおっしゃる時には、その不幸の中にその人を追放してしまおうと思っておられるのではありません。むしろその逆です。「わたしを信じなさい。わたしがあなたと共に歩んで、あなたの罪の失敗をすべてわたしの側に引き受けてあげよう。わたしがあなたの身代わりになって十字架にかかるから、あなたは罪から離された者として、今日ここから生きなさい」と、主イエスは招いてくださいます。 |
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