聖書のみことば
2025年6月
  6月1日 6月8日 6月15日 6月22日 6月29日
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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■音声でお聞きになる方は

6月8日主日礼拝音声

 人を照らす光
2025年ペンテコステ主日礼拝 6月8日 
 
宍戸俊介牧師(文責/聴者)

聖書/ルカによる福音書 第11章33〜36節

<33節>「ともし火をともして、それを穴蔵の中や、升の下に置く者はいない。入って来る人に光が見えるように、燭台の上に置く。<34節>あなたの体のともし火は目である。目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが、濁っていれば、体も暗い。<35節>だから、あなたの中にある光が消えていないか調べなさい。<36節>あなたの全身が明るく、少しも暗いところがなければ、ちょうど、ともし火がその輝きであなたを照らすときのように、全身は輝いている。」

 ただ今、ルカによる福音書11章33節から36節までを、ご緒にお聞きしました。33節に「ともし火をともして、それを穴蔵の中や、升の下に置く者はいない。入って来る人に光が見えるように、燭台の上に置く」とあります。主イエスは、この言葉を何度も繰り返して弟子たちに教えておられたようです。この言葉はここに初めて出てくるのではなくて、8章16節でも、有名な「種蒔きのたとえ」に続く言葉として語られています。8章16節に「ともし火をともして、それを器で覆い隠したり、寝台の下に置いたりする人はいない。入って来る人に光が見えるように、燭台の上に置く」とあります。主イエスが繰り返し「ともし火のたとえ」を通して教えようとなさったのは、神の御言葉をどのように聞くのかということでした。8章では、直前に種蒔きのたとえが語られていて、せっかく主イエスが神の御言葉を宣べ伝えて御言葉の種を蒔いてみても、それが全部、聞いた人の心の中に根を張って育つことかできる訳ではなくて、うまく育つことのできない種も多くあることが語られていました。けれども、もし種が良い土地に落ちて芽生え育つことができたなら、その御言葉の種はその人の中に根を張って豊かに実を結ぶことが教えられていました。それに続くともし火のたとえで教えられている「ともし火」とは、聞いた人の中の良い土地に落ちることのできた種のことであり、主イエス御自身がその人の中に共にいて住んでくださることを表す言葉でした。
 ですから8章では、ともし火のたとえの結論として、「どう聞くべきかに注意しなさい」と勧められていました。せっかく種が良い地に落ちて実を結び、その人の中に主イエスが共に住んでくださるようになっても、その人が共にいてくださる主をぞんざいに扱い、感謝もしなければ、御言葉に喜んで聞こうともしないならば、せっかくのともし火の光が遮られて、その人の生活が暗くなってしまうことを、この8章のともし火のたとえは教えていました。主イエスは繰り返し、このたとえ話を大切な事柄として弟子たちに教えておられたのです。

 今日の11章でも、ともし火は、弟子たちに与えられている神の言葉である御言葉を表わす比喩として語られています。ともし火は御言葉であり、そして、御言葉を私たちに聞かせてくださる主イエス御自身のことを表わしているのです。
 主イエスがともし火のたとえを通して弟子たちに教えられたのは、このともし火が覆い隠されるものではなくて、人々に見えるように燭台の上に置かれ、部屋の中を明るく照らすものなのだ、ということでした。私たちにも御言葉の種が蒔かれて良い地に落ち、豊かに実っている実りがキリストであるというのであれば、私たちを明るく照らしてくださるキリストを私たちの中の燭台の上に置くということになるのですが、しかし、私たちの中で主イエス・キリストを燭台の上に置くというのは、実際のところはどういうことなのでしょうか。
 結論から言えば、それはキリストが自分の中に来て共に生きてくださっているという信仰を、ただ心の中の奥深くに秘めておくというのではなくて、共に住んでくださるキリストに支えられながら、私たちが実際の日々の生活を生きてゆくということではないでしょうか。信仰は心の事柄ではなくて、生活の事柄なのです。信仰を与えられている人は、その人の中にキリストが共に生きて働いておられるが故に、信仰をまだ持っていなかった時とは、思うことや感じることや行動が変わり、そして生活も変わってくるものなのです。
 主イエスは先の29節から32節で、神への信仰をただ心の奥深くに留めているのではなくて、実際の生活に表した2つの実例を挙げておられました。南の国の女王とニネベの人々の例です。
 南の国の女王は、イスラエルとユダの王であったソロモンが深い知恵を与えられていることを知ると、心の中でただ感心するのではなくて、実際に長い旅をしてソロモンの許を訪れ、その知恵について理解しようと教えを求めました。またニネベの人々は、預言者ヨナから神の裁きが間近に迫っていることを聞いた時に、ヨナの語る言葉を真剣に聞いて受け止め、自分たちが神の怒りを買うような罪を犯していることを理解して悔い改めました。心の中だけでただ後悔するのでなく、罪から離れようと願い、実際に神に助けを願ったのでした。南の国の女王の場合もニネベの人々の場合も、そんな風に、彼らが耳にした御言葉のともし火は、彼ら自身のあり方や実際の生活を変えました。これらの人々は、御言葉の光を燭台の上に置いて、周囲の人々にもまた自分自身にも光がよく見えるように行動しています。

 では、私たちの場合はどうなのでしょうか。私たちはともし火となる御言葉を聞いて、どこか生活や行動が変化しているところはあるのでしょうか。
 まずは自分から礼拝にやって来るということが、はっきりと周囲にも見える行動の変化だと言えるのではないでしょうか。もちろん最初のうちは家族に連れて来られて礼拝に参加したとか、親しい人に勧められて、あまりよく事情は呑み込めないものの礼拝に出席したのかも知れません。教会で見聞きする事柄の一切が最初からよく分かっていた訳ではなくて、教会の群れの一番外側のところに立っているようなつもりでいたかも知れません。それでも何回か礼拝に参加して聖書の説き明かしに耳を傾けていくうちに、これは単なる昔の教えや、訳も分からないままただ字面だけを反復して語られているお経のような言葉ではなくて、確かに意味があり、そして自分にも語りかけられている神の言葉であると理解できるようになって来たのではないでしょうか。人によっては、次の礼拝で読むことになる聖書箇所を予め自宅で読んでみて、礼拝ではどのようにこの言葉が説き明かされるのだろうかと楽しみにしながら礼拝に来る方もおられるかも知れません。
 そういうことが実際に起こるのは、聖書に記されている言葉が実際に生きて働かれる神の御言葉を表す言葉であり、一言一言の内に私たちを御前に生かそうとする命の力が宿っているからなのです。命の御言葉の種蒔きが行われて、私たちの内面の良い場所に落ちて芽生え、根を張って実を結んだ結果、私たちは、南の国の女王のように、この礼拝に自分から進んでやって来るようになっているのです。
 また、そういう生活の中で私たちは、御言葉の光に自分のありようが照らし出されるという経験をすることもあります。今までは自分一人だけで生きていて、ただ自分の思いや願いが実現すれば良いと、そのことばかり考えていた人が、御言葉の光に照らされることによって、以前は決して想像もしなかったような自分自身への振り返りを持つようになる場合があります。自分の思いが実現すれば良い人生、実現しなければつまらない人生だとごく単純に考えていたものが、「自分の思いがそのまま実現することが果たして本当に良いことなのだろうか」という気づきを、御言葉の光に照らされることで与えられたりするのです。思いや願いが実現すればもちろん当座は嬉しいのですが、しかし私たちは欲深なところがあって、願うものが手に入ると、そのことに感謝するよりも先に、すぐ別のものが欲しくなってしまいます。それでいて私たちには移り気なところがあって、常に同じ方向を向いて歩くのではなくて、時には前の願いと正反対のことを願うようなことだってあるのです。御言葉の光に照らされて、そういう自分自身のあり方に気づくようになると、自己を実現することが何より大事なことというのではなくて、むしろ、自分というものは移り気なくせに思い通りにゆかないと気に入らない暴君のようなものであって、そういう暴君に引き回されて生きてしまうとあっという間に一生が過ぎてしまい、しかもそこには感謝や喜びよりも不満や怒りや後悔ばかりが満ちてしまいがちであることも理解できるようになります。そして、自分の一生を暴君である自分自身に仕えて過ごすのではなくて、「本当にこのわたしを正しく治めてくださる方に従って生きなくてはならない」という思いが芽生えてくるのです。ニネベの人々が御言葉の光に照らされて悔い改め、神の御前にあって正しく生きることを願ったように、私たちにも悔い改めが訪れることがあるのです。
 そしてそのように、元々のあり方から変わることを願う人は、御言葉のともし火を燭台の上に置いて、自分自身や世の中のことをその光の中で考え行動するように変えられます。具体的には、生活の中で神の御心を尋ね求めて祈ったり、聖書を開いて神の御言葉を自分の中に蓄えようとするのです。私たちにとって「ともし火を燭台の上に置く」というのは、おそらく、そんな生活に向かって行くことではないでしょうか。

 主イエスはまず「ともし火のたとえ」を通して、そのように、生きている御言葉の力に与り自分自身の中に主をお迎えして生活するようになることを教えられました。そして、それに続けて主イエスは「目のたとえ」を語っておられます。34節に「あなたの体のともし火は目である。目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが、濁っていれば、体も暗い」とあります。前回、「今の時代の者たちはよこしまだ」と主がおっしゃった「よこしま」ということを考える中で、この目のたとえに出てくる「濁っている」という言葉が、実は「よこしま」と同じ文字だと申し上げました。よこしまであるということは、目が濁っていてともし火の光を通さないために、体全体が暗くなってしまう状態でした。
 ともし火の光、つまり御言葉の光を目の前に見せられながらも、その光を自分自身の内側に迎えることができないために御言葉を正しい方向で受け止めることができずにいると、御言葉を理解することもできません。そういう人は、自分があっと驚かされるようなしるしばかりを求め、しかしそれでいて遂に神の正義も愛も慈しみも信じることなく終わってしまうことを、主イエスは深く嘆いて、「今の時代の者たちはよこしまだ」とおっしゃったのでした。

 今日の箇所では、そのように目が濁ってよこしまである状態と対比させるように、「目が澄んでいる」という言葉が語られています。目を心の窓のように考えて、濁っていれば光を室内に採り入れられないけれども、透明に澄んでいれば御言葉の光が射し込んで来るというのは、理屈としては分かります。しかし実際のところ、「目が澄む」というのはどういうことを言っているのでしょうか。「目が澄む」ということを、今日は少し注意して考えてみたいのです。
 「目が澄む」と訳されているこの言葉は、元々のギリシア語の聖書では、「一つである」「単一である」という文字が書いてあります。ですから直訳しますと「目が単一であれば」と書いてあるのですが、それでは日本語として意味が分からないために「澄んでいる」と訳されているのです。ちなみに聖書協会共同訳や口語訳の聖書では、新共同訳と同じく「澄んでいる」と訳されていますが、新改訳の聖書では「健全である」と訳されています。
 「単一である」という文字は、パウロの手紙の中にも繰り反し用いられています。パウロはこの「単一である」ということをとても大事な事柄と考えていたようなのですが、新共同訳では、「真心を込めて主に仕える」という際の「真心」とか、あるいは「惜しみなく施す」とか「物惜しみしない心」といったところでは「惜しまない」と訳しています。つまり「単一である」というのは、二心を抱いて言い訳をするのではなくて、全身全霊をもって相手に身を向けるということ、即ち、神や主イエスに向かって、まっすぐに向かうあり方のことが言われているのです。
 体のともし火は目であると言われますと、体ががらんどうの箱のようにも思えますが、「体」というのは、私たちの日々の生活のことです。私たちは自分の一生を一瞬に生きてしまうのではなくて、日々様々なことを具体的に経験しながら生きています。今、具体的にと言いましたが、「具体」的というのは「体を具える」と書きます。ここに語られている「体」は、まさに私たちがそれぞれに具体的に経験する日々の暮らしのことです。私たちの生活を明るくするのも暗くするのも目なのですが、もちろん肉限という意味ではなくて、信仰の眼のことを言っています。
 信仰の目が単一で、まっすぐにともし火の源である主イエスを見ているならば、体全体、生活全体は明るく照らされるのだと、主イエスは教えてくださいました。たとえ苦しいことや困難に出遭う時にも、その人の生活は明るいのです。大変なところに差し掛かっていても、神がわたしを照らして「ここで生きて良い」とおっしゃってくださっていることを知らされて、私たちは慰めと力を与えられて、先に進んでいくことができるからです。
 しかし、二心を抱いて神以外のものにも心を寄せ、「神も大事だけれど、こちらも大事なのだ」と言い訳しながら生きてしまうと、その人生は暗くなってしまいます。「目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが、濁っていれば、体も暗い」というのは、そんな風に私たちの生活が明朗であるか不明朗なものになってしまうかを語っている言葉なのです。

 そういう「ともし火のたとえ」と「目のたとえ」を語られた末に、主イエスは勧めておられます。35節に「だから、あなたの中にある光が消えていないか調べなさい」とあります。この光は御言葉の光です。そしてそれは、種明かしをするなら、十字架の上から注がれる、主イエスの思いやりと決意に満ちた温かな栄光が光源となっている光です。
 主イエスは今、十字架に向かって顔を堅く据えながら、エルサレムのゴルゴタの丘に向かって進んでおられます。そして遂には、十字架にお掛かりになります。ですから、光の源である主イエスは決して消えることはありません。私たちの側が背を向けて見ないようにしても、また忘れてしまうとしても、光の源である主イエスは、私たちを常に明るく照らし出しておられるのです。
 「あなたの中にある光が消えていないかを調べる」というのは、私たち自身の信仰生活のあり方のことを語っています。私たちは時に自分のありようが見事であるかそうでないかということの方に思いが向かってしまい、私たちを温かく照らし出してくださる光に思いが向かなくなる場合があります。「主イエス・キリスト」という言葉が一番短い救いを教える聖書の言葉なのですが、主人はもはや人間ではなく、主イエスであり、この方がキリスト、つまり救いの御業を果たしてくださったメシアなのだということです。それが「主イエス・キリスト」です。私たちはこの方の成し遂げてくださった救いの御業の光に照らされ温められて、私たち自身もその温かな愛を周りにお裾分けするようにして生きる者たちとされているのです。
 その大元の光を見失っていないかを確かめるようにと、主イエスはおっしゃるのです。私たちの中に御言葉の光が与えられ、主イエス・キリストがわたしの中に住んで照らしてくださるところでは、たとえ困難の中でも、全身つまり生活全体が明るく温かく持ち運ばれます。そしてその生活をもってキリスト者一人ひとりは、この世にあって輝きを発する者とされていくのです。

 貧しくても弱くても、多くの失敗や欠点を抱えていても、私たちは自分の中にともし火である主イエス・キリストをお迎えして、最後には光の源である主イエスと一つに合わされ、キリストに似た者に変えられてゆきます。私たちの全身が、すなわち生活のすべてが主に伴われ、支えられて、温められ愛に満ちたものとされる、そういう約束が与えられていることを憶え、またこの世にあってキリストの救いの光を照り返し現す者とされる、そのような慰めと希望をもって、ここから歩み出したいと願うのです。お祈りをささげましょう。

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