ただ今、ルカによる福音書14章1節から6節までを、ご一緒にお聞きしました。1節に「安息日のことだった。イエスは食事のためにファリサイ派のある議員の家にお入りになったが、人々はイエスの様子をうかがっていた」とあります。
新共同訳聖書では、ところどころにゴシック体で書かれた小見出しが入っています。この小見出しは元々の聖書には書かれていないのですけども、初めて聖書を手にする人にも読み易くなるようにと、付け加えられたものです。言ってみれば、出版者の親切心からこのような小見出しが付けられたのですが、その親切が時に裏目に出てしまい、聖書本来のつながりが分かりづらくなる場合があります。今日の記事もその一つで、この箇所は、本当は1節から24節まで続く長い一つながりの記事なのです。
主イエスが招かれてお入りになったファリサイ派の家での昼食会の場で、主イエスは一つの癒しの業をなさいました。それが今日の箇所ですが、この癒しはここだけで話が終わるのではなくて、その後、主イエスが次々となさるたとえ話のきっかけにもなっているのです。一つながりの長い記事が、新共同訳聖書では1節から6節、7節から14節、15節から24節と、小見出しによって3つに分けられているので分かりにくいのですが、例えば12節を見ますと、主イエスが食事に招いてくれた家の主人に向かって話しかけているので、6節までと7節からは続いていることが分かります。また15節で発言している客は、14節までの主イエスの言葉に反応して言っていますので、ここも1節から13節は一続きの場面であることが分かります。そのように、1節から24節までは注意深く読むと、一つながりの記事であることが分かるのです。
さて前置きが長くなりましたが、この日は安息日でした。ここには書かれていませんが、主イエスは午前中はいつもと同じく、この時、滞在していた町か村のシナゴーグ(会堂)での礼拝に参加され、そしてその後、食事を共にして欲しいと申し出た人に付いて行って、その人の家にお入りになったのでした。主イエスを食事に誘った人はファリサイ派の議員と言われていますので、その町では有力者だったのでしょう。食事に招かれたのは主イエスだけではなくて、主を招けば当然、主に従っている弟子たちもぞろぞろと後に付いて食事の部屋に入ることになるのですが、食事の客は主イエスの一行だけではなくて、他にも何人かの客が招かれていたようです。そのことが、次回に聞く箇所にもつながって行くのですが、1節では招かれた主イエスの様子を人々が窺っていたと言われていました。これは、顔には出しませんけれども、主イエスの言葉と行いを、それとなく注目して見張っていたということです。
人々はなぜ、主イエスの様子を窺っていたのでしょうか。それはファリサイ派の人たちが主イエスに対して激しい対抗心と敵意を抱いていて、あわよくば、主イエスの振る舞いや言葉尻をとらえてやろうと狙っていたからに他なりません。ファリサイ派の議員は主イエスを食事にお招きしたのですが、実は真心からというよりも、下心をもって、揚げ足をとってやろうとする魂胆が隠れている、そんな招待でした。それで人々は、主イエスの様子を窺っていたのです。
ところが、まさにそのタイミングで、主イエスの前に水腫を患っている病気の人が現れます。この人は議員が招き入れたのではなくて、おそらく何人かの人が食事のために家に入って行くのを見かけて、何かのおこぼれに与れることを期待して、一緒に入り込んで来たようです。もし正式に招かれた人であったなら、病気が癒された後も食事の席に戻った筈ですが、4節に、この人は病気を癒してもらった後、帰っていますので、招かれていなかったことが分かるのです。
この人は水腫であったと言われますが、これは病名ではありません。水腫は、何かの病気のために腹水が溜まっていたり、体液が体内に溜まる症状を言うようです。ですから、病はいろいろですが症状では体が浮腫んでいたり、ぜいぜいという咳が出たりするようで、この人が病んでいることは外からもよく分かったのでした。そういう人が、この日、主イエスの前に現れたのです。もしかすると、この人がファリサイ派の議員の家に入って来たのは、主イエスが病気を治してくださると期待してだったのかも知れません。しかしこの組み合わせは、主イエスの揚げ足を取るために様子を窺っていた人たちにとっても、良い機会が訪れたことになります。果たして主イエスは、この人を癒してあげるのでしょうか。それとも放っておかれるのでしょうか。
3節で、主イエスは固唾を呑んで見守っている人々にお尋ねになりました。「安息日に病気を治すことは律法で許されているか、いないか」。実はこれとよく似た問いかけを、主イエスは以前に安息日の会堂で集まっていた人たちに問われたことがあります。6章9節で、主イエスは会堂の礼拝に集っていた人たちに、尋ねておられます。「そこで、イエスは言われた。『あなたたちに尋ねたい。安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、滅ぼすことか』」。
言い回しこそ同じではありませんが、ここで主イエスが会堂の人々にお尋ねになったことは、意味の上では、今日の食事の席で尋ねておられることと同じです。病気の人を安息日に癒すことは神の前で許されるのか、許されないのかということを、主イエスはお尋ねになります。会堂に集っていた人たちは、この主イエスの問いに答えたでしょうか。誰も答えませんでした。主イエスは、この時会堂にいた一同を見回し、手の不自由だった人を癒やされました。そして、その様子を目撃した人々は激しく憤ったことが6章11節に述べられていました。「ところが、彼らは怒り狂って、イエスを何とかしようと話し合った」。
あの日会堂に集っていた人たちは、主イエスの問いかけに答えませんでした。しかしそれは、答えが分からなくて答えられなかった訳ではありません。彼らはこの問いに対して、一つのはっきりした答えを内心では持っていました。それは、主イエスが癒しをなさった後に激しく憤って、主イエスを何とかしようと話し合ったことからも分かります。彼らは、「何としても安息日には仕事をしてはならない」と考えていたのでした。「安息日にはいかなる仕事もしてはならない」というはっきりとした答えを持っていながら、彼らは主イエスのお尋ねに答えようとしませんでした。それはどうしてでしょうか。理由は、彼らが主イエスを訴える口実を見つけようとしていたからです。6章7節に言われている通りです。「律法学者たちやファリサイ派の人々は、訴える口実を見つけようとして、イエスが安息日に病気をいやされるかどうか、注目していた」。
ですから今日の箇所で起こっていることは、以前、会堂で安息日に起こったことと非常によく似たことが起きているのです。場所は会堂と家の中で違いますが、どちらも主イエスを訴えようと様子を窺っていることは同じです。手の麻痺と水腫と、病気の種類も違いますが、病んでいた人が安息日に主イエスによって病気から解放される点は同じです。主イエスはどちらの場合にも安息日の主として行動なさり、病んでいる人々を病の捕らわれの状態から解放してくださるのです。
ですから、今日の箇所から聞こえてくるのは、「安息日の主イエスの力と喜びに満ちた訪れ」と言って良いでしょう。主イエスを信じない人々がどんなに激しく憤慨するとしても、そのことで主イエスは少しも怯んだりはなさいません。主イエスがやって来てくださるところでは、罪の赦しと癒しがもたらされる、そのことが今日の箇所の最初に語られていることです。「罪の赦しと癒し」、癒しは多くの人に分かり易いのですが、しかし主イエスの場合には、癒しだけが単独で起こるのではありません。癒しの大元のところには、主イエスによる罪の赦しの出来事があるのです。
このことを主イエスは今日の箇所で教えておられるのですが、しかし、聞いた人たちは主イエスの言葉が理解できず、今度こそ何を答えて良いのか分からないので、黙ってしまいます。5節6節に「そして、言われた。『あなたたちの中に、自分の息子か牛が井戸に落ちたら、安息日だからといって、すぐに引き上げてやらない者がいるだろうか。』彼らは、これに対して答えることができなかった」とあります。「彼らは、これに対して答えることができなかった」というのは、主イエスに言い込められて何も言い返せなかったとうことではありません。註解書では時折、「言い込められて反論できなかった」と説明しようとする人がいますけれども、それよりも、そもそも何故主イエスがここで、突然、井戸に落ちた息子や牛の話をなさったのか、その真意が分からずに戸惑ってしまった、だから返事ができなかったのです。
どうして主イエスは、ここで突然、息子と牛と井戸のことを言い出したのでしょうか。主は、この言葉の意味をたとえ理解できないとしても、ここでおっしゃった言葉が聞いた人々の心に残るようにと巧みに工夫した言い方をしておられます。ただその言い方は、日本語になってしまうとほとんど分かりません。当時主イエスが話しておられたアラム語では、息子はブラー、牛はブイラー、井戸はベイラーと言います。すなわち主イエスはここで、「息子ブラーか牛ブイラーが井戸ベイラーに落ちた」という風に言っておいでなのです。「ブラーかブイラーがベイラーに落ちることを考えてみなさい。安息日だからといって、手をこまねいていられないでしょう」と、主イエスはおっしゃるのです。記憶に残すための一種の言葉遊びのような形で、主イエスは事柄を教えようとなさるのです。
では、主イエスがここで教えようとなさった事柄は、何なのでしょうか。自分の息子が井戸の中に落ち込んでしまう、それが一大事だということは、誰でも分かります。すぐに助けなければ、井戸の中で溺れ死んでしまうでしょう。人命救助は何にも勝って優先しなくてはならないので、そういう状況では安息日にもはやこだわっていられなくなるということは理解できるでしょう。
では、牛はどうでしょう。牛は大切な財産であることは確かではあっても、人の命と牛の命を同等に見ることはできません。牛というのは、先理申し上げたように記憶に残すために選ばれているので、これは羊でも山羊でも同じなのですが、要するに何かの動物が非戸に落ちて溺れることが予想されるという話です。この場合、動物の命は人間の命と同等ではありませんけれども、それでもやはり今日は安息日だから一日待とうとは言っておれない事態になるのです。何故なら、もし溺れた動物を丸一日、井戸の中に放置してしまったら、死体はすぐに腐り始めますから、井戸の水が汚染されることになります。すると、その井戸をもはや井戸として使えなくなってしまいます。そういう意味で、井戸の中に動物が落ちた場合にも、人命救助とは別の意味で、飲み水を清潔な状態に保つために、安息日にこだわらずに急いで引き上げなければならないのです。
一方では人間の命を守るために、もう一方は命を支える水を清らかな状態に保つために、一刻の猶予もなく人や動物を井戸から引き上げなくてはなりません。主イエスは、ここで起こった癒しは、まさにそれに似て緊急な事態だったので行われたのだとおっしゃいました。
しかし聞く人たちは、まさにその点が分からないのです。主イエスが癒したのは水腫の病人です。慢性化していて治るのは難しかったかも知れませんが、だからと言って明日をも知れぬ命ということではありません。そもそもこの人は自分の足で歩いてファリサイ派の家の中にまで入って来たのですから、井戸の中に落ちた子どものように、今すぐ手を下さないと亡くなってしまうというような状況にはないのです。従って、主イエスのおっしゃっている井戸のたとえ話が、今行われた癒しの出来事とどう繋がるのかが分からなくて、聞いた人たちは誰も何も答えることができませんでした。
主イエスは息子と牛と井戸のたとえ話を通して、事態の緊急性ということを教えられます。しかし、一体何が緊急なのでしょう。主イエスが気にしておられるのは、安息日が形だけのものになっているという点なのです。安息日の形骸化です。それを主イエスは問題になさるのです。主イエスが安息日の会堂で手の不自由だった人を癒やされた時、それを見た人々はひどく憤慨しました。しかし一体、何に怒ったのでしょうか。それは、「何もやってはならないはずの安息日に主イエスが働いているのを見て」怒ったのでした。
では何故、安息日にはどんな業も行ってはならないのでしょうか。人間の行いにも悪い行いと良い行いがあります。悪い行いをしてはならないのは当然のこととして、何故良い行いまでも安息日にしてはならないのでしょうか。
たとえどんなに良い行い、良い業をするとしても、その行いが人間のすることである以上は、その行いの裏側には実はべったりとした人間臭さ、自分で自分を良いと思う自己義認の思いが貼りついています。あまりにも当然のようにこびりついているので、日頃払たちは、自分の行いの裏に自己義認があるとは気がつかないのです。でも簡単に分かるのです。自分がこれは正しい良いことだと思っている行いを他人から悪く言われたり、茶化されたり、けなされたりすると、私たちはすぐに腹を立ててしまうのではないでしょうか。それは、気づかないほど当たり前のように、自分の行っていることは良いことなのだと得意に思っている心があるからなのです。毎日毎日働いて、そういう行いを積み上げていくと、やがてはバベルの塔の出来事のように、私たちの高慢な思いは高く積み上がってしまうに違いありません。ですから7日毎に、たとい良い業であっても、人間の業を一旦中断して、神の御前に集められ、自分自身のあり方を振り返って、新しく神の喜びのもとに再出発しなければならないのです。それが「安息日には何も行ってはならない」ということの理由です。ですから、安息日というのは、人間が自分の業や行いの誇りから離れて、神の御前に平らになる日です。そのために安息日はあるのです。私たちは、神の御前に集まって、神を賛美しながら平らに過ごすということを教えられるのです。
ところが、ユダヤ人たちの実際の姿はどうだったでしょうか。ファリサイ派を先頭にして、安息日を守るというあり方にまで、自分たちがどのように見事にそれを守れているかという高慢さが育つ苗床のようになってしまっていました。神から命の水を頂いて、新しく爽やかな思いを与えられ、神から「あなたは清い者だ」と言っていただいて、心から感謝し喜んでここから生活を始めるべき安息日に、あろうことか、その水原が人間の高慢さによって汚染され、神の前で生きる命が失われかけていることを、主イエスは見抜いておられました。あのアダムとエバが神からいただいた警告を思い出すと、よく分かるでしょう。「善悪の知識の木から取って食べてはならない。その実を食べたら、あなたはきっと死んでしまう」と神は警告なさいました。アダムとエバはその木の実を食べても死にませんでしたが、しかしそれは、神の目から見れば、神との関係が切れてしまった、死んだ状態なのです。安息日の礼拝の時に、神の前に平らになり、そしてここからもう一度、神に支えられて歩み出すということが始まらないならば、私たちの命は、神の目からは死んだ命だと言われてしまうのです。
ですから主イエスは、形骸化して仰々しいだけの安息日に、新しい命の喜びをもたらそうとなさるのです。病の癒しがそれです。主イエスはこの日、そのようにして、深刻な病気に組み敷かれたようになっている人をその病から解放し、神に心から感謝し、再び神に平らに生き始めることのできる入口を備えてくださろうとします。ファリサイ派の人々は、残念ですが、そういう主イエスのおっしゃっていることが分からなかったのです。ですから、何も答えることが出来ませんでした。
こういう記事を聞きながら、私たちは自分たちの礼拝、自分たちの姿を振り返ることができるのではないでしょうか。私たちもこの日、主イエスの御言葉に出会って、慰められ新しくされ、勇気と力をいただいて、ここから平らに歩み出して行くのではないでしょうか。そのような安息日の主が私たちを訪れてくださることを知って、「どうか主が、わたしのもとにも来てくださいますように」と祈り求め、歩みたいと願うのです。お祈りをささげましょう。 |