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2025年11月 |
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| 11月2日 | 11月9日 | 11月16日 | 11月23日 | 11月30日 | ||
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。 *聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。 |
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| 神の国の食事 | 2025年11月第3主日礼拝 11月16日 |
宍戸俊介牧師(文責/聴者) |
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聖書/ルカによる福音書 第14章15〜24節 |
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<15節>食事を共にしていた客の一人は、これを聞いてイエスに、「神の国で食事をする人は、なんと幸いなことでしょう」と言った。<16節>そこで、イエスは言われた。「ある人が盛大な宴会を催そうとして、大勢の人を招き、<17節>宴会の時刻になったので、僕を送り、招いておいた人々に、『もう用意ができましたから、おいでください』と言わせた。<18節>すると皆、次々に断った。最初の人は、『畑を買ったので、見に行かねばなりません。どうか、失礼させてください』と言った。<19節>ほかの人は、『牛を二頭ずつ五組買ったので、それを調べに行くところです。どうか、失礼させてください』と言った。<20節>また別の人は、『妻を迎えたばかりなので、行くことができません』と言った。<21節>僕は帰って、このことを主人に報告した。すると、家の主人は怒って、僕に言った。『急いで町の広場や路地へ出て行き、貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人、足の不自由な人をここに連れて来なさい。』<22節>やがて、僕が、『御主人様、仰せのとおりにいたしましたが、まだ席があります』と言うと、<23節>主人は言った。『通りや小道に出て行き、無理にでも人々を連れて来て、この家をいっぱいにしてくれ。<24節>言っておくが、あの招かれた人たちの中で、わたしの食事を味わう者は一人もいない。』」 |
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ただ今、ルカによる福音書14章15節から24節までを、ご一緒にお聞きしました。15節に「食事を共にしていた客の一人は、これを聞いてイエスに、『神の国で食事をする人は、なんと幸いなことでしょう』と言った」とあります。 ところで、主イエスに言葉をかけた相客の人は、主イエスの言われた復活の時、即ち、正しい者たちがよみがえらされる時という言葉に反応したのです。正しい者たちが復活させられて神の国の宴に連なる者とされている場面を思い描き、そして自分もその宴の席に置かれることを思い描いて、「神の国で食事をする人はなんと幸いなことでしょう」と言いました。 主イエスは、そのような神の国の食事の時が訪れることを知らせるために、この日、一つの寓話を話されました。神が催してくださる盛大な宴会の寓話です。大勢の人がそこに招かれたのだとおっしゃいます。16節17節に「そこで、イエスは言われた。『ある人が盛大な宴会を催そうとして、大勢の人を招き、宴会の時刻になったので、僕を送り、招いておいた人々に、「もう用意ができましたから、おいでください」と言わせた』」とあります。当時、王が催すような正式の宴は、招こうとする人たちに予め宴会の日程を伝えたものでした。招かれた人々は、その招きに応えて宴会に伺うと返事をしますと、当日になって宴会のすべてが整ったところで、改めて王から使者が送られ、招かれて参加すると答えた人たちを実際の宴会の会場までエスコートしたのです。ところがその日になってみると、宴会に招かれていた人たちが皆それぞれの都合を挙げて招待を断ってしまったというのが、主イエスのなさった話です。ある人は、畑を買ったのでその地所を見に行くという口実で、他の人は、家畜を買ったのでその家畜の健康状態を調べに行くという口実で、また別の人は、結婚して妻がいるので伺えないという口実で、主人の招きを断ったと言われています。宴会への参加を断った側には、皆それぞれの理由があり、それで言い訳がつくと思って断っています。 元々神の民となって生きるように求められたユダヤ人たちは、ファリサイ派を筆頭に、神の国の食事を断って、やって来ようとしない人たちに重なります。しかし主イエスはそう言って、ユダヤ人たちを非難することを目的に、この話をなさった訳ではありません。この話には更に先があります。招いておいた人々が宴会にやって来ないことを知った主人は、僕を遣わして、元々は招かれていなかった貧しい人々や体の不自由な人々、目の見えない人々、足の不自由な人々を宴会の席に招こうとします。この人たちに求められるのは、自分が招かれたことを知って、素直にその宴会に連なるということだけです。先に招かれていて来なかった人々がファリサイ派の人々に重なるとしたら、後から宴会に来るようにと招かれた人々は、主イエスによって神の民に加えられ、主イエスと共に生きるようになった人々に重なります。即ち、私たちです。貧しくて、自分など何のお役にも立てないと思うかも知れません。体が不自由なために自分の思い願うような見事な人生や信仰生活を生きるのは難しいと思っているかもしれません。目が見えないために、自分の周りに沢山備えられている神の豊かな支えが分からず、臆病に歩んでしまうかも知れません。足が不自由なために、始終歩みがよろけてしまい、時には転んで立ち上がることに苦労することがあるかも知れません。それでも宴会の主人である神は、そのようにふつつかで頼りなさそうな者たちに、御自身の宴に加わって、そして喜びを共にして生きるようにと招いてくださいます。肝心なのは、その招きの言葉を聞いて、感謝し喜んでそれに応じることなのです。 ところが、この神の民の宴会は私たちが日頃考えるよりもはるかに盛大で豊かな集いなのですが、僕が一通り招けるだけの人を会場にエスコートして連れて来ても、尚、空席が目立ちます。宴会の主人は、そこにも人を招こうとします。僕に更に言いつけて他の人たちを連れて来るようにされます。23節に「主人は言った。『通りや小道に出て行き、無理にでも人々を連れて来て、この家をいっぱいにしてくれ』」とあります。通りというのは大通りのこと、小道はそこから毛細血管のように広がる路地を指しています。即ち、すべての道を歩き回って、行きがかりの人たちを手当たり次第にこの宴会に来させなさいと、主人は僕に命じます。もちろん人は皆、目的をもって道を歩いていますから、突然招かれても来ないかもしれません。それでも、「何とかしてこの場所に連れて来て、この家をいっぱいにしてくれ」と主人は言います。 そのように働いてくださっている主イエスに招かれて、私たちも主イエスにエスコートされるようにして教会の礼拝に紹かれ、このところで神の慈しみを聞かされ、喜んで神を賛美して生きてゆくように変えられていきます。宴会の主人であり人々を招かれる神は、御自身の家が既にいっぱいだとはおっしゃいません。ということは、教会の扉は、終わりの日に至るまで常に開かれているということです。私たちはもしかすると、私たちの礼拝堂の座席がいっぱいになったらそれで良いと考えることがあるかもしれませんが、しかし、神の求めはもっと大きいのです。この礼拝堂がいっぱいになったなら、神の家はもっと大きいのですから、礼拝堂を大きくしなければなりません。神はそのように新しい人を、なお御自身の民に加えようとしてくださるのです。そういう中で私たち一人一人も招かれ、ここに集う者とされています。 私たちは、そのような主の招きによって、この教会に導かれ、毎週新しく聖書を通して主の御言葉に接し、主イエスにエスコートされるようにして、喜びを生きることを教えられ、養われながら歩んでいきます。そのような主の導きを憶え、神に感謝して、ここからの一巡りの歩みへと遣わされたいと願います。お祈りをおささげしましょう。 |
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