ただ今、ヨハネによる福音書1章1節から5節までを、ご一緒にお聞きしました。
1節に「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった」とあります。この1節の中に、3度も繰り返して「言」のことが語られます。この「言」は、どうしてこんなに繰り返し語られ、強調されるのでしょうか。このように強調されて語られる「言」とは一体何者なのでしょうか。この先の14節を読みますと、この言が主イエスを表しているらしいことが分かります。14節に「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた」とあるからです。「言が肉となった」、つまり人間になった訳ですが、「この方は父の独り子であって、恵みと真理に満ちていた」と言われています。そして更に17節を見ますと、「恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである」と言われていて、神の恵みと真理を私たちに現すために、肉体をとって人となった「言」が「主イエス・キリスト」のことを指していることがはっきりと分かります。
このように、「言」と言われている方が主イエスだということは分かるのですが、それでここに語られていることがすぐによく理解できるかと言うと、どうも一筋縄ではいかないようなところがあります。ヨハネは、どうしてもっと率直な言い方をしなかったのでしょうか。即ち、言が主イエスのことを指すのであれば、もっと単純に、「初めに主イエスがあった。主イエスは神と共にあった。主イエスは神であった。主イエスは初めから神と共にあり、万物は主イエスによって造られた」という言い方をしても良さそうなものです。どうして最初のところでは主イエスの名前を伏せて「言」という言い方をしておいて、それが途中で、まるで手品の種明かしをするみたいに、「実はこの言は肉体をとってお生まれになった主イエスのことなのだ」というような言い方になっているのでしょうか。
このように、最初は主イエスの名前が伏せられた形で万物を創造した神の御言について語り、後から、その力ある御言が実は主イエスという方なのだという言い方をヨハネが選んだ理由は、この福音書が何故書かれたかという理由と深く結びついています。
広く知られているように、新約聖書の中にはマタイ・マルコ・ルカ・ヨハネという4つの福音書があり、ヨハネによる福音書は、他の3つの福音書と比べてその書き方が少し違っていて、書かれた時期も少し後だと言われています。他の3つの福音書は、もちろん一言一句が同じではありませんが、書かれている内容は互いによく似通っているため、「共観福音書」つまり物の見方の観点を共にしている福音書であると言われたりします。それに対して、ヨハネによる福音書は少し観点が違うために第4の福音書と呼ばれます。それは聖書の中に置かれている順番が4番目ということと、書かれた時期が他の3つよりも少し遅いということによります。
ということは、ヨハネによる福音書が書かれた時には、もう既に他の3つの福音書が書かれていて、その存在は知られていたということになります。そして、ナザレのイエスという名前も、ある程度広く知られるようになっていたのです。主イエスのお名前が知れ渡っていて、その主イエスについて知りたければ、福音書を読んで聞かせてもらうこともできた、その時代に、何故ヨハネは更に第4の福音書を著したのでしょうか。そこに、この福音書が書かれた深い意味があります。何故第4の福音書が書かれることになったのか。その理由について、ヨハネ自身が福音書の中で語っています。20章31節に「これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである」とあります。「これらのこと」というのは福音書の内容です。なぜこの福音書が書かれたのかと言うと、「これを読むあなたたちが主イエスのことを神の子メシアであると信じるようになるため、そして、信じて主イエスの名によって新しい生き方をするようになるためだ」とヨハネは言います。ここでヨハネが語っていることは、よく考えてみますと、驚くようなことではないでしょうか。「この福音書を読むことになるあなたがたは、主イエスのことを神の子メシアだと信じるようになってほしい。そして主イエスの名による新しい命を受けて生きるようになって欲しいのだ」とヨハネは言うのです。
既に申し上げたように、当時の世の中にあっては他の3冊の福音書の存在が知られていて、ナザレのイエス、イエス・キリストという名前も、ある程度知れ渡っていました。イエス・キリストというお名前のうち、キリストは救い主メシアという意味ですから、救い主イエスという名前自体は世の中に知られていたのです。でも、単に名前が知られているということと、その名前で呼ばれる方を神の子、救い主であると信じて、この方によって新しい命を与えて頂いて生きるようになることとは、確かに同じことではありません。今日の日本で言えば、多くの人が世界の三大宗教と言えば仏教、キリスト教、イスラム教のことで、このうちキリスト教をイエスという人が始めたらしいということは知っています。知っていますけれども、そのイエスが神の子だとも救い主だとも思わない、まして、この主イエスによって命を与えられて生きるような生活があることなどは思いもよらないという人が大多数でしょう。ただ名前を知っているということと、その方を信じてその方によって新しい命を与えられて生きることとは、まったく違うことです。
ヨハネ自身は、そのために第4の福音書を著したと述べているのです。他の3つの福音書の中にも主イエスが何をなさったかということは書かれています。主イエスの時代の人々がどのように主イエスをあしらい、その中でどのようにして主イエスが神の御計画に従って十字架までの道のりを歩み、十字架にお掛かりになって救いの御業を果たされたかということを聞くことはできます。けれどもヨハネの時代には、そういったことは、すべてお話にすぎないことだと思う人が大勢いたのです。イエスの名前は知っている、ある程度の出来事も知っている。けれども、そのお話と、今自分が生きている命とは何の関わりもないと考える人々が増えてきている時代に、ヨハネは第4の福音書を著しました。
しかし主イエスのことを単なる作り話かおとぎ話のようなものだと思っている人たちに向かって、いきなり「主イエスは最初からおられた方だ。主イエスは神と共にあり、神と等しい方なのだ」と話をしてみても、聞いてはもらえないでしょう。それでヨハネは、創世記に出てくる天地創造の話を思い起こさせるような語り方でこの福書書を書き出しているのです。創世記1章で神が天地をお造りになった時、最初に創造されたものは光でした。「神は言われた。『光あれ』、すると光があった」と言われています。ヨハネはこの福音書の最初に、すべてのものを存在するように呼び出された力強い神の「言」の話をします。
今日の記事を聞いた時に、私たちはこれをクリスマスの話だと思って聞きますけれども、まったく初めてこの言葉に触れた人や天地創造の話を知っている人であれば、これは神の天地創造の話がされているのだと思うでしょう。天地創造の話を思い出してもらうために、ヨハネはわざわざ書き出しの言葉まで創世記と同じにしています。「初めに」という言葉です。「初めに、神は天地を創造された」、創世記はそう始まります。これは大変有名な言葉ですから、ヨハネによる福音書が「初めに」という言葉で語り出された時に、それを聞いた人の中には、この先は「神は天地を創造された」と続くのではないかと予想しながら聞いた人もいたでしょう。しかしヨハネは、「初めに言があった」と続けます。創世記と同じ文言ではありません。けれども創世記の記事の中で、神が天地創造なさった時、確かに神は「言」をもって、光を初めすべてのものをお造りになりました。ですから今日の箇所に述べられていることは、確かに「言」によってすべてを無から造り出してゆかれる神の力強い創造の御業なのです。
しかし、「言」による神の創造の御業を語る中で、ヨハネが注意深く忍び込ませている一つの言葉に注目したいのです。それは4節に出てくる「命」という言葉です。「言の内に命があった。命は人間を照らす光であった」。私たちはここに言われている「言」が主イエスのことを指していると思って聞きますから、このように聞かされてもあまり変には思いません。「言が肉をとって、私たちの間に宿ってくださった主イエスのことだ」と考えて、主イエスは確かに肉体をもって地上を生きてくださったのだから、「言に命がある」と聞かされても、それはそうだろうと思って聞いてしまいます。けれどもここの原文は、「言のうちに生じたものは命であった」と言われています。ただ単純に「言に命があった」と言われているのではなくて、「この言によって初めて命があるようにされた」と言われています。一番新しい聖書協会共同訳でもその点を考慮して、「言の内に成ったものは、命であった」という訳をしています。
主イエス・キリストによって、今までなかったような命がもたらされました。新しい命が生じました。そしてここに生じた新しい命こそ人間を照らす光だったのだと、ヨハネは言います。
この福音書の終わりに何故この福音書が書かれたのかが語られていましたが、そこには「あなたがたがイエスは神の子メシアであると信じるようになるため、そして信じてイエスの名により命を受けるようになるため、この福音書を著した」と語られていました。「言の内に命があった」というのは、「自らが神の言である主イエスによって新しい命が生じて、私たちのただ中にもたらされている」ということなのです。単純に「言である主イエスがお生まれになって肉体を取った。だから言に命があるのだ」と言っているのではありません。主イエスの中に生じた命は、私たちの知らないようなまことに清らかな新しい命であり、明るく輝いて私たち人間を照らし出し、温めてくださる、そういう神からの命なのです。それは新しい命であり、そして永遠の命です。
主イエスのもたらした新しい命がそのように清らかで永遠なものであることは、この福音書の3章に登場するファリサイ派の議員ニコデモと主イエスとの間に交わされた会話を思い出してみると合点がいくのではないでしょうか。ヨハネは2章の終わりのところで、「主イエスは人間の心の中を見抜かれる方である」とわざわざ書いています。そしてそれにすぐ続けて、ニコデモが主イエスのもとにやって来るのですが、主イエスはニコデモの心にある思いを見抜いて、ニコデモが口に出して質問するよりも先に、ニコデモが聞きたいと思っていた答えをおっしゃいます。3章3節に「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」とあります。主イエスは、「新たに生まれる」ことをニコデモに求めます。するとニコデモは困惑して「年を取った者がどうしてもう一度母の胎内に戻って生まれことができるでしょうか」と語ります。ここでは主イエスとニコデモの会話が噛み合わないのですけども、それは何故かと言うと、主イエスが御自身によってもたらされた新しい命のことを思って話しておられるためです。主イエスはここでニコデモに向かって、主イエスを力に満ちた神の子だと信じて、主から頂く新しい命を生きるように招いておられるのです。
ところがニコデモは、自分に語りかけられている「新たに生まれる命」という事柄が分かりません。自分は今生きているとニコデモは思っています。当然今自分は生きているし、また、この命と人生は自分の心掛けや努力次第でどのようにでも道を拓いて生きて行くことができるものだと思い込んでいます。そしてそのために、主イエスが知せようとしておられる「新しく生まれる」ことを理解できずにいるのです。この場面では、ニコデモは主イエスの言葉を理解できないまま、いわば両者物分かれのような形になって行くのですが、しかしここでニコデモが主イエスの言葉を理解できずにいる姿から、私たちは考えさせられるのではないでしょうか。
私たちも日頃、ニコデモと同じように考えたり思ったりして生活しているのではないでしょうか。即ち、「自分の胸の中で心臓が動き、肺が上がったり下がったりして呼吸をしている。だから自分は生きている」と普段私たちは漠然と思っているのではないでしょうか。そういう地上の命は、もちろん、やがていつか終上符を打つ時が来ます。しかし、その時までは自分は生きるのだし、命とはそういうものだと考えているのではないでしょうか。そして、その地上の人生の時間を少しでも意味あるものとしたいと願う、あるいはそう願う人は、丁度、主イエスのもとに人目を避けてでも訪ねて来たニコデモとよく似た願いを抱いているのです。そのように願うこと自体は悪いことではありません。むしろ願わしいことと言って良いでしょう。しかしニコデモにお答えになったのと同じように、主イエスは今日、私たちにもお答えになります。「はっきり言っておく。あなたは今日、新しく生まれるのだ。即ち、母の胎内から生まれ直すのではなくて、上から新たに生まれる者になるのだ。そして、上からの光に照らされて、新しい命を生きる者となりなさい」とおっしゃいます。
ニコデモは主イエスの言葉を聞いて、当惑しました。そのニコデモの前で主イエスは、かつてイスラエルの民が荒れ野で青銅の蛇を見上げて命を守られ旅路を進んで行けたことを引き合いに出しながら、主イエス御自身もやがてあの蛇のように上げられる時が来ることを話されました。そしてその先に、有名なヨハネによる福音書3章16節の言葉が続くのです。「神は、その独り子をお与えになったほどに世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」。「あなたは、主イエスを神の子メシアであると信じなさい。信じて、この主イエスによって新しい命を受けて生きる者となりなさい」と、この福音書を書き著したヨハネは、今日、私たちにも語りかけています。私たちのために新しい命が主イエスによってこの世界の中にもたらされました。この命の温かな光に照らされて、主を信じる人々は生きる者とされます。
私たちは母親から生まれて来てそしてやがて地上を去る、肉の体を引きずって今を生きていますが、しかしそれだけで一生が終わっていくのではなくて、この人生の途中で主イエスが私たちに出会ってくださっているのです。「あなたは上からの温かな光に照らされて、ここから生きる者になりなさい。神さまがあなたの命を喜び祝福してくださっている。そのことを信じて、慰められ励ましを受けて生きる者になりなさい。これは決して作り話ではない。あなたは主イエスから命を受けて生きる、新しい者に変えられるのだ」とヨハネによる福音書は語っています。
地上の歩みを主によって照らされ、主の言に温められ、私たちの魂が凍えて固まらないように、主イエスは一足一足を守ってくださいます。そうやって、私たちは地上の道ゆきにあって永遠の命を頂いて、ここから生きてゆくのです。お祈りをささげましょう。 |