ただ今、ルカによる福音書14章25節から35節までを、ご一緒にお聞きしました。
25節から27節に、「大勢の群衆が一緒について来たが、イエスは振り向いて言われた。『もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない』」とあります。「あなたは、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、自分自身の命を憎むようでありなさい。また、自分の十字架を背負って従いなさい。そうでなければ、あなたはわたしの弟子ではありえない」と、主イエスは言っておられます。これを聞いてどのように感じるでしょうか。大変厳しい言葉だと思われるのではないでしょうか。とてもこれは、文字通りにはできないと思う方がいらっしゃるかもしれません。主イエスに従って歩もうと決めている方でも、改めてこのように聖書から聞かされますと、襟を正され背筋を伸ばさせられる思いになるかもしれません。あるいは、どうして主イエスはこのような厳しいことをおっしゃるのだろうかと不思議に思うかもしれません。そもそも「父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命を憎む」とはどういうことなのでしょうか。また、「自分の十字架を背負って主に従う」とはどういうことでしょうか。
少し先の16章に、主イエスが弟子たちに向かって、「神さまとこの世の富とに兼ね仕えることはできない」と教えるところが出てきます。そこでは、「どんな召使いも二人の主人に仕えることは不可能だ」と主イエスはおっしゃいますが、その時に、「一方を憎んで一方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかになる」という言い方をなさいます。「家族や自分自身の命を憎む」というのは、「二人の主人に兼ね仕えることはできない。一方を憎んで一方を愛する」と言われているのと、ほぼ同じ言葉遣いであると考えて良いと思います。すなわち、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹、更に自分の命を憎むと言われているのは、家族や自分自身のことを嫌うという意味ではなくて、むしろ「主イエスの方を深く愛して、主に従っていく」という意味で言われていると思われます。
そして、主イエスはエルサレムの十字架に向かって進んで行かれ、その十字架の上で救いの御業を果たそうとしておられますから、その主イエスについてゆこうとするならば、「わたしに従うあなたがたも自分の十字架を銘々背負うようになるのだ」と、主イエスは言っておられるのです。主イエスに従っていこうとする人、主イエスの弟子であろうとする人は、その従おうとしている主イエス御自身が十字架に向かっておられるのですから、もはや十字架と全く縁の無い者として人生を生きることが出来なくなります。すなわち主に従う人の人生には、必ずそこにその人の十字架が立つということになります。
しかしその十字架は、もちろん主イエスがお架かりになった十字架そのものではありません。私たちには主イエスがお架かりになった十字架は重すぎて、とても担うことはできません。そんなことは不可能です。しかしまったく同じではないとしても、主の十字架によって清められ新しくされたキリスト者の人生には、何かしらの十字架が立てられていくようになるものなのです。主イエスによって罪を赦され清められていく、そのしるしを帯びて、キリスト者はそれぞれの人生を生きるようになります。
主イエスに従っていこうとする人は、親しい家族との交わりや自分の命よりも、主イエスとの繋がり、主と結びついて生きることの方を、より大切に考えるようになります。また、その主が十字架に向かって行って私たちのために十字架に架かってくださった方なので、生活の中にその主の十字架によって新しく生きるようにされたしるしの十字架が立つようになります。主イエスよりも自分自身や家族の方が大事だったり、あるいは主の十字架を嫌って自分の生活の中に十字架の痕跡を何も受け入れようとしない、そういう人は、一瞬は主イエスと交わる機会を持ったとしても、結局は主イエスについていくことが出来なくなります。「わたしの弟子ではありえない」というのは、そういう意味です。主イエスの方が毛嫌いして追い出すのではなく、その人自身のあり方が主イエスに従えなくなるのだと、主イエスは教えておられるのです。
どんなに近しい人間も主イエスの代わりにはなりません。そしてまた、十字架に向かわない主イエスもあり得ません。したがって、主イエスに従う人は主イエスを第一に考え、また、十字架に向かう主イエスを大事に考えるようになります。
しかしそうは言っても、「自分の十字架を背負って主に従う」とは、実際のところはどういうことなのでしょうか。主イエスはそのことを、ここで二つのたとえ話を通して教えてくださいます。「塔を建てるたとえ」と、「外国から侵略してくる軍隊を迎え打つ王のたとえ」です。
最初の塔のたとえは、登場する人物は簡単に塔を建てられると思って必要な費用の備えがないまま、安易に塔の建設に取り掛かったために、遂にその塔を完成させることが出来ずに終わります。「主イエスの弟子となって主に従う生活」を安く見積もって、主に従うことを第一と考えず、言ってみれば自分の一部だけで主イエスにお付き合いするようなあり方というのは、信仰生活を最後まで貫いて歩くことができなくなるのです。すなわち、自分自身や自分の愛する者たちとのつながりの方を第一に考えて、主イエスとはほどほどのお付き合いのように付き合っていこうとする人は、一時は主に従うようであっても、結局は自分から主イエスを離れてしまうようになります。今日の箇所には「家族や愛する者たちや自分を捨てて十字架の主に従うように」という招きがあるのですが、その招きに素直に応じて従う人でなければ、塔を完成させることは出来ずに終わってしまうのです。
しかしそれならば、家族や愛する人たち、自分自身を捨てるというのは、そういう人たちとお別れをするとか自分の命を絶つことかというと、そうではありません。家族とも近しい者たちとも今まで通り一緒に生活して構わないのです。ただ、そのような生活における人間的な近しさが自分にとって第一のものになるのではなくて、主イエスとの交わりの方が本当の意味で、自分自身というものを成り立たせてくれる第一のものなのだとわきまえていくことが、とても大切なことです。主イエスという方は、私たちが今生きている自然な命、生きようとする意欲や活力に勝って私たちを生かし支えてくださる方だからです。私たちがもはや自分では生きていくことが大変で、もうこれ以上は歩めないと思う時も、主イエスはそんな私たちをお見捨てにはならないからです。「わたしはあなたと共にいる。あなたは今日ここであなたとして生きて良いのだ」とおっしゃってくださいます。ですから、主イエスは私たちにとって第一の方なのです。生きる上で最大の頼もしい力を与えてくださいます。
また、主イエスに従って生きていくということは、私たちが片手間でできるようなことではありません。28節に述べられているように、私たちは腰を据えて計算しなくてはならないのです。「わたしは本当に主イエスという方を第一の方だと考えて、自分自身を全面的にこの主に明け渡しているのだろうか。人生の全体を主に明け渡して、主に伴われ導かれて生きることを本当に願っているのだろうか」ということを、腰を据えて自問自答しなければなりません。自分自身を省みて、そして、「わたしのために十字架に架かってくださった主イエスに従って生きるのだ」という志と心構えを新たにしなければならないのです。
2番目のたとえは、王のもとに敵が攻め寄せて来るというたとえです。この王は今や自分の命と自分の国とを失わないために、進軍してくる敵を迎え打って決戦に臨もうとしているのですが、やはりそこで腰を据えて考えるということが求められています。
しかし一体何を考えるのでしょうか。また、どう考えるのでしょうか。この2番目のたとえで重要なのは、敵の存在だろうと思います。主イエスに従って生きようとする弟子の生活を続けて行くときには、そこに敵が攻めて来るのです。では、この敵とは一体何でしょうか。それは、私たちがイエスに従って生きて行こうとする歩みを妨げて、主に従う生活から私たちを逸らしてしまおうと、次から次へと襲ってくる誘惑のことではないでしょうか。仮にこの敵が誘惑であるとすれば、私たちはその誘惑を自分の信仰や自分の思いや自分の力で退けることができるのでしょうか。このたとえの中で主イエスは、味方の兵士は1万人だけれども攻め寄せて来ようとする敵は2万人もいるのだと言っておられます。これは、いざ敵に直面してしまうとこれを迎え打って勝利することは大変難しいということを教えているのではないでしょうか。信仰者を主イエスから引き離して逸らしてしまおうという誘惑は、後から後から現れて、数えられない程数が多く、また手強いのです。この誘惑を自分の手だけで、私たちの力や思いや熱意だけで退けることは到底叶わないだろうと思います。
であればこそキリスト者たちは、誘惑に襲われることがないように予め神と和解して、誘惑が襲って来ないように守っていただかなければならないのです。主イエスが教えてくださった主の祈りの中でも、「試みにあわせず、悪より救い出したまえ」と祈ることを教えてくださっています。私たちは自分の力によって誘惑を組み伏せることができるようには考えない方が良いようです。むしろ、「そういうものに襲われないように、どうかわたしを守ってください」と、私たちよりも強い方にお祈りをしなければならないのだと思います。
このようにたとえを聞いてみますと、「十字架を背負って主に従う生活」がどういうものかというイメージが少しずつ沸いてくるのではないでしょうか。それは、どこか一部分で主イエスとお付き合いするのではなくて、「自分自身の全体を明け渡して主イエスをお迎えして、このわたしの中に主となって主イエスに住んでいただく」ということであり、そしてまた、自分の力や思いで信仰を保ち自分から主に従うというのではなくて、むしろ「私たちの中に住んでくださって私たちの信仰を支え守ってくださる方に信頼して生きる」また、「この方から離れないように祈る」ということが、十字架を背負って主イエスに従っていくということではないだろうかと思われます。そのように祈る生活を続ける時に、私たちは、自分自身の中に主イエスを真の主としてお迎えをして主に従って人生を生きていくことができるようにされるのです。
逆に、もし、こういう祈りを祈るということが失われてしまうと、私たち自身の中から、「このわたしが自分の命と人生の主人公であり、自分にとって近しい者たちや自分の望む事柄をけっして手放すまい」とする自己中心的な思いが頭をもたげて、私たちを支配しようとします。そういう誘惑を治めるためには、私たち自身の力や思いによるのではなくて、「神さまが私たちの中に主イエスを住まわせてくださるように」と祈ることが大切になります。
ところで、今まで少し考えた中で気づいたかもしれませんが、主イエスに従うあり方、弟子としてのあり方から私たちを逸らして引き離そうとする力や誘惑は、常に外からやって来るとは限りません。私たち自身の中に、実は得体の知れない力が潜んでいます。そしてそれは、機会があれば、いつでも私たちを虜にして捕らえてしまおうとするのです。そういう不可思議な力というものが私たちの中に隠れているのです。
外から襲ってくる誘惑と同時に、私たちの中から頭をもたげてくる誘惑とも私たちは戦わなくてはなりません。殊に、「あなたはあなたのどこか一部が主イエスとお付き合いするのではなくて、自分をすっかり明け渡して主に従うのだ。主イエスをあなたの主としてあなたの中にお迎えするのだ」などと聞かされてしまいますと、私たちの中に隠れ潜んでいる、「自分こそ自分の主人でありたい」と願っている要求が突き上げて来て、激しく主イエスに手向かうということが起こり得るのです。
しかしだからと言って、そういうことに気がついて驚いたり、うろたえたりする必要はありません。なぜか。主イエスは人の心の中にある思いがどのようであるかを知っておられるからです。私たち自身の心の中には、機を見て主に逆らい、気ままに自分が主人となって生きたいという思いが住んでいます。しかし主イエスは、そのことで私たちを叱ったり咎めたりはなさいません。最初から、人間の中にあるのはそういうものだと主イエスは御存知だからです。主イエス御自身は、そういったものに怯むことなく、御自身の救い主としての御業を果たしていかれます。すなわち、今日の箇所でもそうなのですが、堅くエルサレム郊外の十字架を見据えて、そこに向かって歩みを進めていかれ、そして、その十字架に自らお架かりになって私たちの罪を滅ぼそうとしてくださるのです。私たちが自分自身をすっかり開放して自分の中に主イエスをお迎えする、そして主となっていただいた時に、そこに立つ十字架というのは、実はその主が、私たちの中に潜む罪とも戦ってくださり、そしてその罪をすべて主イエスの側に引き取って、主イエス御自身の苦しみと死によって罪を滅ぼしてくださったことのしるしでもあります。
ですから、「十字架を背負って生きる、人生の中に十字架が立っている人」というのは、「彷徨い出しやすい、逆らいやすいわたしのために、主イエスがいつも戦っていてくださる」ことを知って、生きて行くことになるのです。自分の心の中の得体の知れない深みから突き上げてくる欲求や欲望に対して、主イエスが常に御自身の身をもって戦い、そして私たちの全身が欲望の虜になってしまわないように守り働いてくださいます。
キリスト者の人生の中に十字架が立てられているということには、そういう大きな頼もしい意味もあるのです。キリスト者一人ひとりの中にやって来て主人となってくださる主イエスが、その人全体を守り導いてくださいます。私たちは日々、そういう主イエスに伴われ守られながら地上の信仰生活を歩んでゆくのです。
今日の箇所の最後では、そのように主イエスに伴われて生きるキリスト者が、この世にあっては塩のような働きをするということが教えられています。塩の働きは、一つには防腐剤であり、またいろいろな食べ物と調和して味をつける調味料としての役目があります。キリスト者はその人生の上に十字架が立てられ、この世界で銘々の歩み・人生を通してキリストを持ち運んで、社会や家庭が完全に腐ってしまわないように、また全体を引き締めて良い味が出るように働くようにされています。
しかしこのように聞かされますと、私たちは、「自分は本当に塩になっているだろうか」と気になるかもしれません。けれども、心配には及びません。ここには「あなたは塩になれ」と命じられているわけではないからです。キリスト者に与えられている塩気とは、その人の中に住んでくださっている主イエス・キリスト御自身です。主がその人と共にいてくださるので、キリスト者は塩味を持つことができるのです。キリスト者はまず、自分が塩によって味付けされ、そして腐らないように、良い味が出るようにされています。塩気の無くなった塩は主イエス・キリストを失ったキリスト者ということですが、しかし、私たちは自分の努力や力で主イエスを自分の中に留めているわけではありません。むしろ、主イエスの方から私たちのもとにやって来てくださって、「あなたと一緒に生きてあげよう」と言ってくださるので、私たちはキリスト者として生きていくことができるのです。
ですから私たちは、自分が塩気を失ってしまうのではないかと心配する必要はありません。「主イエスがわたしと共に歩んでくださる。わたしを本当に生きた者としてくださる」ことに、ただ信頼して、主イエスの御業を讃えて生きる、そのような幸いな者とされたいと願います。お祈りをささげましょう。 |