ただ今、ルカによる福音書14章7節から14節までを、ご一緒にお聞きしました。7節に「イエスは、招待を受けた客が上席を選ぶ様子に気づいて、彼らにたとえを話された」とあります。今日の箇所は、14章1節から6節までの記事の続きになっています。1節で、主イエスはある安息日の食事にファリサイ派の議員に招かれて、その家の客となっていました。ところが同じ食事に、いわば相客として招かれていた人たちが、互いに上席に着こうとする様子を御覧になります。それを見て、ひとつのたとえ話をなさったのでした。このたとえを通して、主イエスは何を伝えようとなさったのでしょうか。
たとえ話自体は比較的明瞭なたとえであると言えるでしょう。結婚式の披露宴に招かれる場合、招待された人の席次は予め定まっているものです。ところが招かれた客人の中に、自分が招かれている者の中で最も位が高く敬われて当たり前だと思い込んでいた人がいたのです。実際にはその人よりも更に地位や身分の高いゲストが招かれていて、最上の席はそのゲストが座るべき席であったため、上席に座った人は後からやって来た、その更に地位の高い人のために席をどかされて下座に移るように指示されるというたとえです。8節9節に「婚宴に招待されたら、上席に着いてはならない。あなたよりも身分の高い人が招かれており、あなたやその人を招いた人が来て、『この方に席を譲ってください』と言うかもしれない。そのとき、あなたは恥をかいて末席に着くことになる」とあります。
そして、そのような恥をかかないためには、むしろ披露宴の末席を選んで座る方が良いと言われます。10節に「招待を受けたら、むしろ末席に行って座りなさい。そうすると、あなたを招いた人が来て、『さあ、もっと上席に進んでください』と言うだろう。そのときは、同席の人みんなの前で面目を施すことになる」とあります。たとえ話ですから、これは実際にどこかの披露宴であった実話ではなくて、あくまでも作り話として語られていることではあるのですが、話の意味するおおよそのところは理解できるでしょう。特に宗教的な内容を述べている話でもなさそうに思えます。この時食事の席にいて、主イエスのこのたとえ話を聞いた人たちの多くは、主イエスがごく一般的なことを言ったのだと受け取ったことでしょう。ここに語られている事柄は、例えば旧約聖書の箴言25章6節7節に教えられているような事柄として聞いたに違いありません。「王の前でうぬぼれるな。身分の高い人々の場に立とうとするな。高貴な人の前で下座に落とされるよりも/上座に着くようにと言われる方がよい」。王の前でうぬぼれる人は、きっと手痛いしっぺ返しを受けることになります。自分の地位や身分を誇って高ぶる人は、実は愚かな行いをしているのだということが、この蔵言の教えるところと言えるでしょう。
しかし、主イエスがこの日、このような婚宴のたとえ話をなさったのは何故でしょうか。主イエスは実際に婚宴の席に着いておられるのではありません。安息日の昼食会では、予め定められた席次がある訳ではありません。それを良いことにホストである家の主人、ファリサイ派の議員のすぐ隣の上席に着こうとしていた客人に対するあてつけとして、主イエスはこのようなたとえ話をなさったのでしょうか。それとも、そのような人たちの姿に気がついて、「こういう姿にあなたがたは倣ってはならない。あなたは常にへりくだって謙虚でいるようにしなさい」と、弟子たちに向かってお語りになったのでしょうか。たとえ話自体は一見明瞭そうでありながら、主イエスがどうしてこのような話をなさったのか、その理由を考えてみると、今日の記事はどうも一筋縄ではいかないところがあるようです。主イエスは結婚式や社交の場でのエチケットを教えられるようなお方ではないからです。
一体、このたとえ話を通して、何が教えられているのでしょうか。このたとえ話を理解するための手がかりとなるキーワードを、福音書を著したルカは、この箇所に書き込んでくれています。それは7節です。「イエスは、彼らにたとえを話された」と言われています。この箇所の話は「たとえ」なのだと言っています。「たとえ」とは何でしょうか。普通に考えるなら、「たとえ」とは、分かりづらい難解な事を分かり易くするために具体的な例などを示して内容を物語って聞かせるものです。事柄が分からないとしても、「たとえば、こういうことがある、ああいうこともある」と具体例を出しなから、抽象的な事について分からせようとします。
ところが、主イエスの「たとえ」はそうではないのです。主イエスが人々に伝えようとする事柄は、常に一つだけ、主イエスはいつも同じことを伝えようとなさいます。それは、主イエスがこれから十字架にお掛かりになって人間の身代わりとして死んでくださり、それによって人々に罪の赦しがもたらされ、神の国の住民となって生きていく、そういう生活が訪れる、「神の国があなたの前に来ている」ということです。「主イエスのたとえ」は、聞く人たちを神の国の中に立たせる目的で語られます。
少し先を読みますと、「神の国は、いつ、どのような形で来るのか」と尋ねた人に対して、主イエスは、「神の国は見える形では来ない。『ここにある。あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ」とお答えになります。普通のたとえが例を示しながら内容を伝えるものだとすると、主イエスが神の国を伝える際には、「ここにある」とか「あそこにある」とかそういった具体例を示すことはできません。それが「神の国」です。では、主イエスはどうやって神の国をたとえで示そうとなさるのでしょうか。主イエスは信じるべき事柄、信仰上の真理をたとえ話の中で聞かせることによって、「神の国が今、実際にここに来ている」ことを語りかけ、聞く人を挑発なさいます。別な言い方をするなら、たとえ話によって聞く人を刺激して、その人を動かし、実際に神の国の中に立たせようとなさるのです。
主イエスのたとえは刺激を与える挑発ですから、聞いた側の反応は2つに分かれることになります。主イエスの言葉を素直に受け止める人もいれば、反発して無視する人も出てきます。主イエスのたとえを理解して受け入れるなら、その時、その人は主イエスによってもたらされている神の国の中に立つようになります。神の御支配の中を生きるようにされます。ところが、たとえが分からなかったり聞き流してしまうと、その人は神の国がやって来ていることに気づかず、そこに入ることが出来ないまま終わってしまうのです。
ですから、主イエスがたとえ話をお語りになる時、そこには、「神の国が訪れて来ている。あなたもこの言葉を信じて、神の国に生きる者となりなさい」という招きがあることになります。
今日の箇所に限らず、ルカによる福音書ではところどころに「主イエスはたとえを話された」という言葉が出てきますが、そういう箇所はいずれも大変重要な箇所なのです。主イエスによってもたらされている神の国の生活への入り口が、そこに開いているからです。主イエスによって罪を赦され、神の慈しみの御支配のもとに生きるという生活の中に立って歩み始める入り口が、一つ一つのたとえ話のところに開いているのです。
今日のたとえ話は、ちょっと聞きますと、全然宗教的ではないように聞こえます。まるでこの世をどう渡って行くのが良いかという処世術を教えているようにも聞こえます。しかし、主イエスはここで処世術を教えようとしているのではありません。神の国の訪れと、そこで神の御支配の下を生きる人たちがどのような経験をすることになるかということを、主イエスは教えようとしておられます。そのことは11節の言葉を聞くと、よく分かります。「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」と、主イエスは言われます。
8節から10節のたとえは、神の国が主イエスによって訪れていることを認めないならば、単なる処世術が述べられているだけのことになります。即ち、「恥をかかないように、また人々の前で面目を保って生きるためには、なるべく末席に行って座り、へりくだるのが良いのだ」という謙遜なあり方を勧めている言葉のように聞こえます。事実、この日食事を共にした人たちの中には、主イエスのたとえをそういう意味に受け取って、ただ謙遜そうに過ごせばそれで良いと思った人もいただろうと思います。しかしその人は、たとえを分かったようなつもりでいても、本当は主イエスの言おうとしていることを聞き漏らしているのです。なぜならば、このたとえの結論は11節にこそ語られているからです。「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」という言葉こそ、主イエスがおっしゃろうとしている言葉なのです。
ここには単に、高ぶっている者がつき落とされ、へりくだる者が上昇するということが語られているのではありません。大切なことは次のことです。即ち、「高ぶる者を低くする方がおられる。また、へりくだる者を引き上げ高めてくださる方がおられる」と主イエスは教えておられます。「高ぶる者は低くなるのではなく、低くされる。へりくだる者は高くなるのではなく、高められる」のです。神の国の訪れを信じて生きるようになる人は、まさにそういう方がおられることを自分の身に経験することになるのだと、主イエスは教えておられます。「高ぶる者、思い上がる者を打ち散らし、自分の低い者を高く上げ、飢えている人を良い物で満たし、富める者を空腹のまま追い返される方」を畏れて生活するようになります。主イエスは、そのような歩みが今、あなたの前に開かれようとしているのだとおっしゃるのです。
続いて主イエスは、この神の国の話を信じて生きる生活が、決して一部の人たちの閉鎖的なサークルのようなものではなくて、貧しい人や、不自由さを抱え痛みや欠けを憶える多くの人々に開かれていることを教えられます。12節から14節に「また、イエスは招いてくれた人にも言われた。『昼食や夕食の会を催すときには、友人も、兄弟も、親類も、近所の金持ちも呼んではならない。その人たちも、あなたを招いてお返しをするかも知れないからである。宴会を催すときには、むしろ、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい。そうすれば、その人たちはお返しができないから、あなたは幸いだ。正しい者たちが復活するとき、あなたは報われる』」とあります。ここには食事の会を催す時に呼んではならない人、呼ぶべきではない人として、友人、兄弟、親類、近所の金持ちと、4種類の人が挙げられています。それはどうしてでしょうか。12節の終わりに、その理由が述べられます。「その人たちも、あなたを招いてお返しをするかも知れないからである」と言われます。神の国の交わりというのは、招待されたら後で招き返すというような、この世のお付き合いとは違うことを、主イエスは教えられます。
主イエスはかつて弟子たちに、こう教えておられました。ルカによる福音書6章32節から34節に「自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな恵みがあろうか。罪人でも、愛してくれる人を愛している。また、自分によくしてくれる人に善いことをしたところで、どんな恵みがあろうか。罪人でも同じことをしている。返してもらうことを当てにして貸したところで、どんな恵みがあろうか。罪人さえ、同じものを返してもらおうとして、罪人に貸すのである」とあります。「自分を愛してくれる人や、自分によくしてくれる人、借りを返してくれる人を愛するのは、この世の人のお付き合いのあり方としては当たり前のものである。罪人だって、それくらいのことはしている。けれども、神の国に生きるあなたがたの交わりは、常にその上を行くのだ」と主イエスは教えられました。
そして、「昼食や夕食、そして何よりも神の国の食卓に招かれる者たちは、お返しのできる裕福な者たちではなくて、常にお返しなどできない貧しい者たちなのだ」と主イエスはおっしゃいます。食事に招くべきでない4種類の人と並んで、積極的に食事に招かれる人も4通りの人が数えられます。「貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人」です。
これは次回聞く箇所になりますが、神の御国で開かれる大宴会のたとえ話の中で、元々宴会に招かれていた人々が次々に出席を見合わせるということが起こります。その時に宴会の主人、これは主なる神を指していますが、その神が僕に言つけて「招いて来なさい」と言われたのはこの4種類の人でした。21節に、「急いで町の広場や路地へ出て行き、貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人、足の不自由な人をここに連れて来なさい」と言われています。今日の箇所で食事に招かれてもお返しのできない人たちとして名前を挙げられている人が、「神の国」の宴会に招かれています。
主イエスが昼食や夕食の会に招くとか招かないと言っておられるのは、「神の国」の食卓を念頭に置いて語っておられるのです。そして、主イエスが神の国の訪れについてこのように教えておられるということは、私たちにとってある意味ではショッキングなことであり、そして同時に大きな慰めに満ちたことでもあるのではないでしょうか。
ショッキングというのは、私たちを食事へと招いて互いに結びつけているものが人間的な親しさや近しさではないと申し渡されているからです。教会の中では、「私たちは兄弟姉妹の交わりの中にある」とよく言われます。そのように言われると、つい、私たちは自分たちを結びつけているものが人間的な近しさであるように錯覚してしまうのです。実際には、教会の礼拝に招かれて集まって来る人たちは本当に様々で、皆が同じように感じたり考えたりするからここに集まってくる訳ではないのです。しかし私たちは、兄弟姉妹である以上は隣に座っている人も自分と同じような感性や考え方をするのだろうと、勝手に思い込でしまう場合があります。
相手がどのように感じ、どう考えているかを思わないで、自分の感性や考え方を当たり前のように押しつけてしまうという過ちを、時に私たちはしがちです。相手があるところまでは合わせてくれるとしても、ある時点で忍耐が限界に達すると、その相手が本当に思っていることや感じていることを口に出して反論するということも起こります。そういう時には、私たちは大変ショックを受けます。自分勝手に隣の人も同じように感じていると思っていたことが幻想であったことに気づいて幻滅する、辛い経験をすることがあり得るのです。
ですが、そのようなことは、今日の箇所で主イエスがはっきりとおっしゃっておられることなのです。「あなたがたが食卓に招く時には、親しいから招くのではない。お返しができて自分と同じような身分だから招くのではない。そういう仕方で招いてはならない」と主イエスはおっしゃいます。友人、兄弟、生活に少し余裕がありそうな人だから、私たちはお互いの交わりを持つのではありません。むしろもっと大きな神の招きがあるが故に、神の招きの前に私たちが等しく立たされているが故に、私たちは一つの群れに招き入れられ、教会の中で主に招かれ、同じ食卓に連なって養われるのです。
私たちが招かれるのは、知恵があるからでも力があるからでも豊かだからでもありません。貧しく、体が不自由で願ったようには行動できず、足が不自由でしばしばよろめいたり倒れてしまう、目が見えないため本当に目を上げて見つめるべき方を見失ってしまうような、情けない者たち、それが私たちです。
けれども、だからこそ私たちは教会へと招かれ導かれて、神の国の一員となって人生を歩むようにされているのです。貧しい者、行動が思うようにできない者、自分で歩こうとするズクを失くしてしまう者、見えなくなってしまう者たちを、主は招いてくださいます。そういう一人一人に、主イエスは十字架を指し示しながら伴ってくださり、御言をもって支え、守り、持ち運んでくださいます。
今日の主イエスの御言の中に、自分自身の姿を重ねて見出すことができる人は幸いです。その人は、主イエス・キリストの御言を通して、今、実際に神の慈しみの御支配の下に、神の国の民の一人として、ここから歩んでゆけるからです。
ですが、仮に、主イエスの御言を聞いても理解できず、よく分からないとしても、悲観するには及びません。主イエスはそのような人も、神の国の救いに招き入れるために働いてくださるからです。たとえ私たちが、今日、御言が十分に聞き取れないとしても、主イエスはそんな私たちに伴ってくださり、倦むことなく疲れることなく、繰り返し御言を聞かせてくださいます。
主が語りかけてくださる御言を聞いて理解し、神の御国の民として主に従って歩む幸いな者とされたいと、祈り続けたいと願います。お祈りをささげましょう。 |